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2024/9/8 ヨハネの福音書19章13〜16節「だれがあなたの王ですか」

ユダヤの祭司長たちは、イエスを処刑させようと、ローマからのユダヤ総督ポンテオ・ピラトのもとに連れてきましたが、ピラトはイエスの無罪を信じるようになり、イエスを釈放しようと努力した、と前回12節にありました。ユダヤ人たちは激しく抵抗して、ピラトは自分の総督の身分さえ危ぶまれる成り行きになったのですが、それでもピラトは釈放を試みます。

13ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。

ここで、今まで総督官邸を出たり入ったりを続けてきたピラトの動きは終わります。イエスを外に連れ出した。この、わざわざ「ヘブル語でガバタと呼ばれる場所」と書く、石の敷き詰められた場所で、ピラトは決着をつけようと最後の足掻きで賭けるのです[i]。しかし必死の願い空しく、ユダヤ人の抵抗の前に崩れ去るのですが。

14その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。…

ここがまた微妙な所です。マタイ、マルコ、ルカの福音書によれば、最後の晩餐が過越の食事で、イエスが十字架につけられたのは、午前9時頃、というのに、ヨハネはここでこれが過越しの備え日で「第六時」とは欄外に「正午ごろ」とあるのです。詳しい説明の諸説は省きますが、何度もお話ししている通り、ヨハネはイエスがまことの過越の子羊として死なれた、という見方に立ちます。ここでもそのことはハッキリしています。「正午」というのは正確に12時ピッタリと時計で図ったわけではなく、昼日中、ということだと思えば良いでしょう。過越の祭りでは、各家庭で子羊を食べます。その過越が始まる日没までの「備え日」は、子羊たちが神殿の庭に集められ、日中いっぱい祭司たちがそれを屠って、各家庭に届けるのです。本来大忙しなのです[ii]。その、過越の子羊たちが屠られる時間に、とヨハネは思い出させます。

14…ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」15彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

ユダヤ人たちは「除け、除け、十字架につけろ」と叫び続け、そればかりか、「カエサル(皇帝)のほかには、私たちに王はありません。」という。それも「祭司長たちが」です。群衆やユダヤ人一般の勢い余っての叫びでなく、祭司の長、18章や他の箇所では「大祭司」と訳されていた、カヤパやアンナス。唯一の神への礼拝の場、神殿や祭儀を司る人々が、ここで、神への信仰を否定する裏切りを口にします。確かにこれは、この時だけの方便でもあるでしょう。本気で「カエサルの他には、私たちに王はありません」と言ったのではありません。まもなくユダヤ民族は、皇帝への反旗を翻して反ローマの抵抗運動を過熱させるのです。しかし、本気ではなくても「カエサルの他には私たちに王はありません」と軽々しく言える、ということ自体が、彼らの本心を暴露しています。主なる神以外、自分たちの王はいない、と本心で思っていたら、こんな言葉は言えません。神ご自身がこう言われていたのを、彼らは知っていたはずです。

イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。 (イザヤ書44章6節)[iii]

主が「わたしのほかに神はいない」と言われる言葉は旧約で繰り返されている、聖書の信仰の骨格です。過越の出来事はまさにその立証でした。イスラエルを救う本物の神がおり、エジプトの王も宗教も神ではないことを出エジプトは露わにしました。その過越の後、民が授かった十戒の第一は「主のほかに神はいない」でした。自分たちを奴隷生活から救い出した、生きた真の神、無二の救い主を、子羊と苦菜と種なしパンの食事で文字通り味わい、思い起こすのが過越の祭りでした。その過越の備え日である昼に、祭司たちは「カエサルのほかには、私たちに王はありません」と、主への裏切りを堂々と口にするのです。

ここに、人間の罪の典型的な姿があります。神ならぬものを礼拝する、という異教の偶像崇拝や犯罪や性的逸脱も罪ですが、もっと根本的には神を自分たちが都合よく利用するだけの、小さなものにするのが根本的な罪です。表面的には神を礼拝していても、その心は、神ならぬ何かしらの力、支配を自分の王としているのです。主ならぬ何かを強く握りしめていて、いざという時には主を捨ててしまうのです。神との関係が壊れており、そして、そういう自分の問題を自分ではどうしようも出来ないのが堕落以来の現実です。今、この礼拝でも、気づくと、主なる神ではないものに自分の心が向かっている――神はその何かを守るための「守り神」で、信仰はそのお守りという手段に過ぎなくなっている――そういう私たちの姿がここにあります。

そういう真っただ中で、イエスは十字架へと引き渡されました。

16ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。

これが「過越の備え日」、つまり過越の子羊が屠られる日に起きたのです。イエスはまことの神の子羊として屠られるため十字架につけられました。それは、人々が神妙に罪を悔い改めたり、神への忠誠を誓ったりしたからではなく、むしろ人々がイエスに憎悪をむき出しにして叫び続けた時、その心根にある、神ならぬものを王と呼んで憚らない、素面(しらふ)な背信が暴露された時でした。その彼らのため、本当の神、唯一無二の神の子イエスが十字架へと引き渡されたのです。唯一の神が、不遜の礼拝者たちのために、イエスを与えた十字架が始まります。神ならぬものを神とする生き方から救い出すためです。こんな神は、他にはいないのです。

旧約聖書で「主なる神の他に神はいない」という言葉には、多くの場合、その神は救いの神に他ならない、という告白が伴っています[iv]

あなたのような神はほかにありません。…契約と恵みを守られる方[v]」。

「このわたしが主であり、ほかに救い主はいない[vi]」。

「正しい神、救い主[vii]」。

わたしのほかに救う者はいない。[viii]

ただ礼拝や従順を主だけに求める――人間のような独占欲、排他的な狭さから「他に神はいない」と言うのでなく、神は救いの神、恵みと契約を守る神、民が拠り頼むに値する岩なる方、それが唯一の神。こんな力強く熱い神を、人間は小さな神にして、別の何かとすり替えるけれども、そんなものはどれも神ではなく、私を救うことも出来ません。そして、そんなものに拠り頼んでどうしようもなくなる私たちを救い出すために、唯一の神が立ち上がり遣わされたのが、ひとり子イエスです。

ヘブル語でガバタと呼ばれる敷石の場所、そこにイエスが立たされたのか、裁判の席に座らされたのか、どちらにしても、その場所だったらしいエルサレムの一角は多くの巡礼者・観光客が訪れます。石が敷き詰められたその場所は、実際はイエスの時代よりも後、新しくて、今日の場所そのものではなさそうなのですが、多くの人がそこを訪れて、そこに立ち、「イエスがここに立ってくださった。私の代わりにここに立ってくださった」と歩いて、十字架への道行きをなぞっていく。多くの人が歩いたので、石がすり減って凹んでいるのだそうです[ix]

ピラトと祭司長たちの問答は、皮肉にも私たちに、「イエスこそ私たちの王であり、十字架につけられた王、イエスのほかには私たちには王はありません」という告白を引き起こします。日曜のこの礼拝だけでなく、私たちの生き方が本当にこのイエスによって支配されること、イエスにこそ私たちの全生涯・生活の隅々までの救い・幸せがある、ということです。過越の備え日に、カエサルだけが王だと宗教者たちが断言する。その時に、イエスは十字架に引き渡されました。それは鏡のように私たちを映しています。あなたの王は誰なのか、誰を自分の王としているのか、と静かに問うてくる。そして、その肝心なところで間違ってしまう私たちのために、まことの王イエスが命を捧げてくださって、神を神とする救いを下さったのです。

「私たちの唯一の王、イエス・キリストの父なる神よ。茨の冠と十字架の苦難をも厭わずに、恵みの契約を引き受けた主を褒めたたえます。王であり救い主である主が、私たちを治め、儚い栄光や空しい憧れから救い、絶望からも傲慢からも救うため、十字架を引き受けてくださいました。イエスが私たちの唯一の神でいてくださる。こんな救い主は他にはいない、とここで、また折々に、心から告白させてください。そうして私たちの全生活も本心も治めてください」

[i] 最後の「裁判の席に着いた」は「裁判の席に着かせた」とも訳せる、つまりピラトがイエスを裁判の座に座らせた、とも訳せます。聖書協会共同訳聖書も「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。」と訳しています。新改訳2017のようにピラトが「裁判の席に着いた」というのが妥当でしょう。第1回 誰が「裁判の席」に座った?――訳文の違いから聖書を味わい直す | 聖パウロ修道会 サンパウロ 公式サイト (sanpaolo.jp)

[ii] 加藤常昭『ヨハネによる福音書5』56頁。

[iii] 申命記4章35節(あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であり、ほかに神はいないことを、あなたが知るためであった。)、39節(今日あなたは、上は天、下は地において主だけが神であり、ほかに神はいないことを知り、心にとどめなさい。)、32章39節(今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また癒やす。わたしの手からは、だれも救い出せない。)、33章26節(「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。)、サムエル記第二7章22節(それゆえ、申し上げます。神、主よ、あなたは大いなる方です。まことに、私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。)、22章32節(主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神のほかに、だれがでしょうか。)、1列王記8章23節(こう言った。「イスラエルの神、主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。)、8章60節(こうして、ついに地上のあらゆる民が、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知るに至りますように。)、I歴代誌17章20節(主よ。私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。)、Ⅱ歴代誌6章14節(こう言った。「イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。)、詩篇16篇2節(私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」)、18篇31節(主のほかに だれが神でしょうか。私たちの神を除いて だれがでしょうか。)、73篇25節(あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。地では 私はだれをも望みません。)、イザヤ書43章11節(わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない。)、44章6節(イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう言われる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。)、8節(おののくな。恐れるな。わたしが、以前からあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があるか。ほかにはない。わたしは知らない。)、45章5~6節(わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。6それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。)、14節(主はこう言われる。「エジプトの産物とクシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らはあなたの後に従い、鎖につながれてやって来る。そして、あなたにひれ伏して、あなたに祈る。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない』と。」)、18節(天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。「わたしは主。ほかにはいない。)、21~22節(告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。)、46章9節(遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。)、ホセア書13章4節(しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。)、ヨエル書2章27節(あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。)、ミカ書7章18節(あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。)

[iv] 前項の下線部を参照。

[v] Ⅱ歴代誌6章14節。

[vi] イザヤ書43章11節。

[vii] イザヤ45章21節。

[viii] ホセア書13章4節。

[ix] ガバタ(敷石) – 土の器 (hatenablog.com)