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2024/9/1 ヨハネの福音書19章8〜12節「あなたを解放する権威」交読詩8篇

ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。

これでピラトが、総督官邸の外に出てユダヤ人と語り、中に戻ってイエスと対峙する、行ったり来たりは、第三ラウンドになります。今ピラトは恐れています[i]。形成は不利で、イエスは無罪だから釈放してやろう、と思っていたのに、自分の立場が危うくなって恐れています。

ここでピラトがイエスに問うた「あなたは(イエスが)どこから来たのか」という問題はヨハネの7章27節などで取り上げられてきました[ii]。しかしここでイエスは何も答えません。それはイエスがピラトの問いの文言よりも、その背後にある恐れに気づいていたからでしょう。

マタイとマルコの福音書では、イエスがピラトの前でもほとんど主張や弁明をせず、何も答えなかったことを強調して、それに総督が非常に驚いたことを伝えます[iii]。総督を前にして、何も言おうとしない。それ自体が非常にインパクトのあることでした。これはイザヤ書53章7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように彼は口を開かない。」を思い出します。イエスは、この大いなる苦しみが始まった時にも黙っていることでピラトを驚かせ、これを読む私たちやすべての人に、ご自身が紛れもなくイザヤの預言していたメシアだと証ししています[iv]

10そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか[v]。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威があることを、知らないのか。」

「俺にはおまえを釈放する権威もあれば、十字架につけてしまう権威だってあるのだぞ」・・・しかし、そうでしょうか。今ピラトは、イエス釈放を再三提案しても空回りして、十字架を要求する声に気圧され、恐れを覚えてここに戻ってきたのでした。無理にイエスの釈放を強行すれば、暴動が起こり、自分の立場も命も危うい…。その恐れで内心いっぱいの中、とりあえずイエスの所に戻り、思いついた質問が「あなたはどこから来たのか」。それもイエスは見透かしているからこそ何も答えなかったのではありませんか。その沈黙に耐えられないで、今まさに空回りしている権威を振りかざしている事自体、ピラトの権威など微力で、ピラト自身、そんな紙の権威にしがみつくしかない無力な一人であることを暴露してしまっています。権威が役に立たない無念さが、イエスへの的外れな質問になり、その相手のイエスにさえ黙られて、ますます惨めになって、ぶちまけたのが10節の台詞でした。これにイエスは答えます。

11…「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」

イエスはピラトの「権威」を、ピラト自身の権威ではなく、上から(つまり天から)与えられた権威であり、ピラト自身に属する権威ではないことを明らかにします。また「わ(イ)た(エ)し(ス)をあ(ピ)な(ラ)た(ト)に引き渡した者」とはユダヤ人たち、大祭司アンナスやカヤパのことでしょう。そして、大祭司という権威は上なる天から、神と人との間を執り成す儀式を行ったり、神殿を礼拝の場として管理したり、律法を率先して実行する責任として与えられています。それが、自分たちの権威・政治的影響力の地位に変え、神殿で暴利を貪って、律法を都合よく利用して民衆を虐げ、イエスをも十字架で苦しんで死なせようと、ピラトに引き渡して、今イエスはピラトのもとにいます。その大祭司たちの方が、天に対して、もっと大きな罪を問われるのです。このように言うことによって、イエスはピラトの言葉の字面に応えるよりも、その権威を笠に着た態度の奥にある、ピラトの恐れ、人としての心の弱さに触れているのです。

この権威を、大きく国家権力、世俗のあらゆる権威ととることも出来るでしょう。ローマ書13章1節でパウロはこう言います。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」[vi]

しかし、ここでは特にピラトがイエスという一個人に対して持つ関係のことでしょう。総督や王、どんな権力者でも、所詮、神から与えられた以上の権威は持たず、その使い方を間違うなら、罪を問われます。同時に、自分の力だけで事情を改善したりも出来ません。イエスはピラトに上なる天を見上げさせます。自分の権威が万能だというのは、幻想だと暴きます。イエスはここで神の子と言う特権は主張せず、ひとりの人として徹底的に謙り、佇んでこう言います。つまりイエスに限らず、あらゆる人、民衆や囚人、どんな人も、解放したり殺したりする自由な権威などないのです。ただ、上なる神から与えられた(お預かりした)力があるだけで、それには限界がありますし、それを乱用すれば神はその力の乱用を、厳しく罪に問われるのです。

この神を忘れたために、多くの人が自分の力で何かをしたと思い上がったり、うまくいかないと何か自分に価値がないかのように勘違いしたりしてしまいます。現代大きな問題となっているハラスメントや暴力の本質は、支配の問題と、恐れの裏返しと言われます[vii]。職場や夫婦、親子、学校や教会、あるいは買い物の客や、通りすがりの関係でも、誰かに自分の力を認めさせよう、あるいは、力を認めてもらえない無力感から弱い人を叩く、ネットで鬱憤を晴らす…。どこかで憂さ晴らしをして、自分に力があるのだと思い込める…そういう心理で動いている。

こうした人の深い闇に、イエスは言うのです。人間の権威・力など、上から与えられることを忘れて、誇ったり脅したりするものではない。あなたにはどうしようもないことまで背負おうとする必要はない。だから、ピラトにイエスの十字架の死を食い止めなかった責任を求めるのは間違いです。むしろ、イエスはピラトから、権威の幻想という重荷を下ろさせるのです。それはそれで、プライドの高い権力者には屈辱でしょうが、しかし、自分の権力・力・無力さよりも上におられるお方、すべてをご存じで、導き、裁く方を仰ぐことは、私たちの解放です。

こう言い切るイエスこそ、実は本当の権威を持つ、本当の王です。イエスは今、最も無力な一囚人に見えます。しかし、それは私たち人間を権威や支配のパワーゲームから釈放するため、自らその最も低いところに来られた姿です。イエスの最も力ある業は、何も出来ない無力な人として自分を差し出し、十字架に磔にされた時になされました。10章18節でイエスは言いました。

「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それは捨てる権威があり、再び得る権威があります。」

イエスの権威は、迷える羊たちに(迷いに迷い続ける羊たちに)いのちを与えるため、ご自分のいのちを捨てる――捧げ尽すことを躊躇わなかった権威です。徹底した憐れみこそイエスの支配ですし、それこそが本当の権威です。人を脅したり、無理矢理変えよう、言うことを聞かせようとしたりせず、自分のいのちを惜しみなく与えたのがイエスの権威であり、本当の権威とは仕えることなのです。

12ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

当時の皇帝(カエサル)ティベリウスは疑い深い皇帝だったそうです。彼に、ピラトが自称王の処刑を一人反対して釈放したとでも伝わったなら、どう思うか…。ピラトはゾッとしたでしょう。しかし言い換えれば、ローマ大帝国の頂点に君臨する皇帝が、疑いや噂や欲望に囚われているとは、何と不自由でしょう。全権を掌握した皇帝さえ、自分の心さえ治められない。イエスは人をそんな囚われから解き放ってくださる王です。私たちを思い上がりからも恐れからも解放してくれます。無力さに耐えられないように思う時も、主の善きご支配を見上げさせ、耐えさせて、与えられた力を良いことに仕えることに専念させてくださるお方です。

「力強き主よ。今も多くの人が、あなたを見上げるより、力の奴隷となり、弱者が脅かされる現実があります。その最も低い人のひとりに、主よ、あなたはなってくださいました。どうぞ、この御姿に私たちも倣わせてください。「私が何か言わなければ」という囚われから解放してください。委ねられた賜物や力を、支配でなく仕えるために用いさせてください。無力に思える時も、焦って何かをするより、そこにこそ主がともにおられる恵みに気づかせてください」

[i] 「ますます恐れを覚えた」とありますが、ここまでにピラトが「恐れ」ていた、という文はありません。実は内心に恐れを持っていた、という読み方もできます。Keenerは、「むしろ恐れた」と読む読み方を提唱します。ユダヤ人の言葉(8節)に、諦めや怒りを抱いてもよいのに、「恐れ」が生じたという違和感に注目させる、という理解です。

[ii] ヨハネの福音書7章27~29節、8章23節、42節、など。

[iii] マタイの福音書27章11~14節(さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」12しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。13そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」14それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。)、マルコ15章1~5節。

[iv] 参照、芳賀力『神学の小径4』第10章(キリスト新聞社、2022年)。

[v] この「私に」は強調表現で、「この私に話さないのか」と苛立ちと脅しを込めているピラトの台詞です。

[vi] ローマ書12章1~7節、および、ペテロの手紙第一2章13~17節を参照。

[vii] DVの背後にある真実:権力と支配のサイクルを解明する – DV、モラハラの相談・サポートならSIAPROJECT (dvkaizen.jp)パワハラの心理の本質は、「自分だけが優位に立とうとする心理」