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2024/8/25 ヨハネの福音書19章1〜7節「見よ、この人だ」

イエスが十字架につけられる朝、ユダヤ人指導者たちと時のローマからの総督ポンテオ・ピラトの駆け引きが続きます。イエスと話したピラトは

「私はあの人に何の罪も認めない」

と釈放を提案しますが、ユダヤ人側は跳ねつけたのでした。そこで

それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。

こうして嬲(なぶ)った後、

ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」

つまり「ここまで痛めつければ気が済むだろう」と考えたのでしょう。

とはいえピラトがイエスを対等に見ていたとも言えません。所詮は属州ユダヤ人の一人です。二度目のイエス面会は何の会話もなく、いきなり「捕らえて鞭で打った」です。この鞭というのが、定規や革のしなやかな面でピシャっと叩く、なんてものではなく、囚人を柱に縛り付け、先に硬いものをつけた鞭で深い傷をつける拷問でした[i]。背中の皮は向けてひどい状態です。更に、兵士たちが茨で編んだ冠の棘は頭に刺さります。紫の衣は、本当に王が着る様な高価な紫布ではなく、汚れてヨレヨレの赤布でしょうが、イエスを嘲弄するための兵士たちの悪知恵でした。「万歳」と冷やかしては平手で叩く。そんな扱いをしておけば十分だ、というピラトの思惑だったのでしょうか。こうしてピラトは、そのイエスを人々に見せます。

イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」

見よ、この人だ。ヨハネの福音書1章で、イエスが最初に人前に登場した時も、洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と指さした台詞でした。そして、今最期の十字架を前にしても「見よ」です。「見よ、この人だ」[ii]。特にこの19章5節の短い言葉、ラテン語で「エッケ・ホモ」というフレーズは、イエスの裁判のクライマックスを描く芸術のモチーフとなります[iii]。今日の招詞、ゼカリヤ書6章の言葉も、

「見よ、一人の人を」

と始まり、ピラトの言葉が図らずも、イエスが真の王であることを証ししている、と引用される言葉です。讃美歌121番「馬槽の中に」も「この人を見よ」と繰り返すのもここからです。罪のないイエスが、捕らえられ、痛めつけられ、王様ごっこの恰好をさせられている。傷と血でやっと立っているのを笑われ、見世物にされている。ここでイエスの言葉はひと言も記されていませんが、打たれた時には叫ばずにはおれなかったでしょう。傷ついたのは背中や頭だけでなく、イエスの人としての心も血を流し、痛んで、呻(うめ)いていたことでしょう。

ここで今日はあえて言います。イエスについての聖書の描写をそのままに読むことと、それが残酷すぎないようにバランスを取ることも聖書の書き方として大事にしたいのですが、それでも、中には聴くことが何かしら辛すぎる方もいるかもしれません。その時はどうぞ遠慮なく、隣に移る、耳栓をする、「そこまで」と手を挙げるとか、自分を守っていただきたいのです。

「エッケ・ホモ」の題材は、その時代の暴力や戦争を取り入れて新たに描かれてもきました。目を背けたくなるような主の姿は、現実に、目を背けるほどの苦しみを多くの人が受けている事実と重なります。そして主イエスは、その痛みを深くご存じで、時間をかけて人の深い傷を癒してくださいます。そこには、イエスの苦しみを聞くことさえ、自分の傷を思い出すフラッシュバックになって辛すぎる、としても十分自然だという理解も必要なのです。

キリストはこの世界のすべての苦しみを、全能の神としてご存じなだけでなく、反対に、十字架という想像を絶する苦悶を耐え忍ばれた、というだけでもありません。この世界にあるすべての痛み、体と心の苦痛、それが伴う様々な深いしんどさをイエスは身をもって知っておられる。聖書の詩篇に祈られるのは「嘆きの詩篇」が最も多く、150篇中55~70篇、三分の一以上が嘆きの祈りです。体の激痛を訴える祈りも多くあり、そこに伴う折れた心も訴えられます。そういう人間としての深く、見えない、言葉にならない苦しみを、神は本当に受け止め、ともに苦しみ、呻いてくださる。その深い深い憐れみを示すのが「この人を見よ」という言葉です。

これを見れば、その罪のなさが十分わかるか、せめて激情も収まり「もう勘弁してやろう」と言うだろう…。しかしピラトの計算違いでした。むしろ憎しみの火に油を注いでしまう。

 6祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」

「自分を神の子とした」は、欄外にあるように、ヨハネの福音書5章18節や10章33節で今までイエスが殺されそうになった、イエスの訴えでした[iv]。「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない」。これはレビ記24章16節に明記されている律法、唯一神教に立つ聖書の厳格な姿勢です[v]。ピラトのようなローマ人だと、自分を神の子だと主張したからと罪に問われることはなく、笑って過ごされるでしょう。今どきの日本で、最上級の誉め言葉として「神だ」と軽く言われる感覚があります。それがまた落ち目になったら、「普通の人だった」で済むのでしょう。ピラトもイエスを鞭打って嘲り、これぐらいで勘弁してやろうと済ませると思ったのです。しかしユダヤ人にしたら、そんな惨めな姿を晒し、ローマ人のピラトにまで同情されて、そんな人間が神の子だと名乗っていたなんて、全く赦し難い冒瀆だ、と逆効果だったのです。ピラトの思惑は、完全に裏目に出てしまいました。

一介の人間が唯一の神の特別な子どもだと主張するのは冒瀆です。イエスは本当に神の子でありながら、低く小さな一人の人となったのです。ここでピラトは「人間」という言葉を使っています[vi]。イエスは本当の人間です。神の子なる方が一人の人間、私たちと同じ人となり、出会う人々をも同じ人間としての目線で友とされた。そして、本当の人となったイエスは、すべての人間に、人間らしく接しました。ナザレの田舎者や異邦人のサマリア人、結婚生活の破綻を繰り返した女性、生まれつきの病人、競争心の強い弟子たちや、裏切るユダにも人として向き合いました。人間を、それ以外の条件で差別したり裁いたりしませんでした。「馬槽の中に」は歌います。

貧しき憂い、生くる悩み具(つぶさ)に舐めしこの人を見よ。
虐げられし人を訪ね、友なき者の友となりて心砕きしこの人を見よ
この人にぞこよなき愛は現れたる
」。

「この人を見よ」と言ったピラトは、しかしイエスのぼろぼろで惨めな外見を見せたかっただけした。「人はうわべを見るが、主は心を見る[vii]。無罪だと思っているのに、鞭や罰で叩いてその場を収められたら良い。誰か目立ったり、波風立てたり、全体から外れたりしたら叩いてもいい――心はどうあれ見てくれだけで考える社会です。現代でも「叩く」ということが有(あ)り触(ふ)れて、溢(あふ)れています。でもそれは、各自が見えない心に抱えている苛立ち、痛み、疎外感の鬱憤晴らし、代理戦争です。見えない心は罪に深く傷ついている。その八つ当たりが、十字架や極刑、誰か標的を見つけては、叩くような暴力になる。ここでイエスは、その一人になっています。鞭、茨、平手打ち――そうした暴力にもまして、愛であるイエスが苦しんだのは、それをする人々の罪のため、だったでしょう。神のかたちに作られた人間の尊い尊厳を忘れ、上辺を整えたり罰したりすることで保つものだと思っている、私たちの心のため、イエスは自らが打たれた一人となりました。見える傷だけでなく、目に見えない深い心を本当に負ってくださいました。言葉に出来ない思いで、呻き、悲しみ、泣いているイエスこそ、真の人間です。

「見よ、この人だ。と連れ出された主の姿は、目を背けるほど痛ましい姿でした。それは主よ、あなたがこの世界のあらゆる痛ましさから目を背けてはいない証しでした。どうぞ、主よこの憐れみによって、私たちの目を開き、冷たい心を変えてください。私たちに、人間としての心を取り戻させてください。主の愛を説きつつ、傷ついた人に無神経な私たちを新しくしてください。痛みを負われたあなたを見続け、あなたを示すよう、私たちも全教会も整えてください」

「鞭打ち教会」のステンドグラス。ピラトとバラバ。

[i]  ギマスティゴー。詳しくは、「牧師の書斎」パウロのむち参照。また、以下も簡単な解説です。「マルコ一五・一五では明確に「ピラトはイエスを十字架につけるために鞭打ちに引き渡した」(直訳)と書かれています。ここに用いられている「鞭打ち」は、《フラゲリオン》(皮の鞭に無数の金属片や骨片をつけたもの)で打つという動詞が用いられており、ローマでは死刑囚に対して行う処罰です。これは十字架刑の執行を命じたという意味になります。ヨハネ一九・一の《マスティゴー》(鞭打つ)は、ユダヤ教会堂で行われた皮の鞭による律法違反者への懲罰の鞭打ちか、またはローマ式の死刑囚に対する処罰の鞭打ちを指します。」https://www.tenryo.net/old/Luke22.htm より。

[ii] ヨハネでは、洗礼者ヨハネと総督ピラトが二回ずつ、イエスを「見よ、〇〇」と紹介します。1章29節(その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。)、36節(そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。)、19章5節(イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」)、14節(その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」)

[iii] エッケ・ホモ – Wikipedia

[iv] ヨハネの福音書5章17~18節「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」18そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」、10章29~33節「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。30わたしと父とは一つです。」31ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。32イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」33ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」」

[v] レビ記24章16節:主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。

[vi] ヨハネはイエスの人間性を最も強調する福音書です。ヨハネの福音書における「人」 アンスローポス 参照。

[vii] Ⅰサムエル16章7節。