ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2024/8/11 ヨハネの福音書18章33〜40節「この世のものならぬ御国」

イエスが十字架につけられる前、当時のユダヤ人の最高権力者、大祭司アンナスの前で少しも怯まずにイエスは語ったのが19節以下でした。33節からにはローマ総督ポンテオ・ピラトの前に立ちます。これが19章16節辺りまで、詳しく伝えられます。ここでもイエスは少しも怯みません。ピラトの方がイエスに引き込まれてしまう。そういう会話が始まります。[i]

33そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」

ピラトの尋問は「ユダヤ人の王か」から始まりました。既にユダヤ人が「やがて神が王なる方を遣わされる」というメシア待望で知られていました。クリスマスの東方の博士たちも言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」[ii]。その王は、ユダヤ人だけでなくすべての民も礼拝すべき王、でした。その信仰はローマ帝国にとっては脅威でもあり、ユダヤの反乱運動には敏感でした。ピラトもそれは承知です。

しかし、今ここにいるイエスの見た目はどうでしょう。思い描いてください、ピラトはローマ総督の権力にふさわしい衣装でいます[iii]。白いチュニックに赤紫のトーガという公職の服装だったでしょう[iv]。対してイエスはユダヤの貧しい身なりで、縛られたまま。他の福音書によれば、既に鞭や拳(こぶし)で叩かれ、唾をかけられていて、ゲツセマネでの激しい祈りから一睡もしないまま迎えた姿は、みすぼらしい限りのいでたちです。大臣と囚人、セレブとホームレスほど対照的です。「あなたはユダヤ人の王なのか」の問いは「あなたがユダヤ人の王なのか」と訳した方がよく、真面目な質問というより、全くの皮肉か、呆れきった台詞です。この言葉に、

34イエスは答えられた。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」

イエスは質問にただ答えず、ピラトを会話に引き込まれる。これはイエスのいつものパターンです[v]。ここでもイエスは怖気づかず、かつ見下しもせず「あなた自身の質問ですか、それとも他の人々からの言葉に基づいた形式的な質問か」と考えさせる。ピラトの予想外でした。

35ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」

「あなたは何をしたのか」は個人的な質問でしょう。とても「ユダヤ人の王」には見えないけれど、この堂々たる態度。自分の前で緊張したり裁判に怯えたりする様子もない。何より、わが身を案じるべき時に、「あなたがそれを聞きたいのですか」と自分の内面を見つめてくる[vi]。そのイエスの態度は、ピラトの態度を変え、影響し始めているのです。

36イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

この「国」は「王」(バシリュース)の派生語「王国」(バシレイア)です。イエスは「わたしの王国」と言いました。自分が王だと強く匂わせます。同時にそれは、この世のもの、この世界に属する国とは異なる。ローマ総督として警戒しなければならないような、脅威となる王権の主張ではありません。かといって、単に自分が反逆者ではない、人畜無害だと訴えるのではありません。むしろ、この世こそ、イエスに属するもの、イエスが世界の王です。ヨハネが一章から伝えてきた通りです。

1章3節すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。…10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

イエスはこの世界の命、言葉、光です。なのに世界がイエスに背を向け、命から遠ざかった。だからイエスが命を与えるために世に来たのです。神に背いて自分たちが神になろう、王とか地位とかお金とか人気とか、力や立場を得なきゃ、と競争し合う世界の内側で、新たな国を立ち上げて対抗するのがイエスのしたいことではありません。イエスはこの世界から出てきた王ではなく、この世界がイエスから出て、それを忘れているのです。ですからこれは「この世界ではイエスの力や支配は発揮されない。魂や来世だけに関わる」と言うことでもありませんし、「キリスト者はこの世のものではないから、その国の法律に従わなくてもいい」という屁理屈でもありません[vii]。イエスの支配が、この世界の権力と根本的に異なる違いは、「しもべたちが戦った」のではなかったことです。イエスがしもべたちに戦ってでも自分を守らせなかったことが、イエスの国がこの世に属するものではない証拠でした。

37節でピラトが「それでは、あなたは王なのか。」と言った時、イエスが答えた「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。」

「あなたが言っています」

と訳した方がよいでしょう[viii]。もし「わたしは王です」と言ってしまったら、ピラトはイエスを反逆者、反乱扇動罪で捕えて処罰しなければなりません。イエスは「王」という罪状で有罪になるより、ご自分がどういう意味での王か、をピラトに伝えます。「わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

真理、本当の事実、変わることのない、普遍の理(ことわり)。それを証しするためにイエスは生まれ、この世に来た、と言います[ix]。それは抽象的なことではなくて、イエスというお方そのものが「わたしは真理であり、いのちです」と言われたように、生きている真理、私たちを喜ばせ、自由にし、偽りから救い出す真理です。イエスはそういう王ですから、武力で戦ったり、ローマ総督だろうと皇帝だろうと争って王位を奪い取ったりする必要はありません。けれども、

38ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」…

こう捨て台詞のように言うと、イエスの答えを待つことなく、官邸の外に出て行ってしまう。ピラトには「真理」とは、哲学や宗教の世界での概念で、真剣に考える価値のないものだったのでしょうか。現代もポストモダンになって「普遍的な真理」などは死語になりました。「真理とは何か」とは問いというより、会話を打ち切る「殺し文句」かもしれません。確かにそんな概念としての真理なら無用でしょう。有難いことに、真理とはそんな絵に描いた餅ではありません。真理とはイエスご自身です。イエスの生涯、教え、なさった業、そしてこの時ピラトの前に立ち、無様な見た目も厭わずに、ピラトに人として向き合ったイエスの姿そのもの。ここに真理が証しされていて、私たちはこのイエスの支配を信じるのです。真理など信じられなくなった人、その時代にあっても、その人にイエスは近づいてくださる。このイエスが私たちとともにいて、私たちと向き合い、私たち同士をも向き合わせてくださるのです。

旧約聖書に真理という言葉は少ないのですが[x]、「まこと」という神ご自身の性質が強調されます[xi]。永久不変の、どこか冷たい真理ではなく、生ける神、世界の創造主であり、動的で恵み深く、情熱的なあわれみの神の、アツい「まこと」がまずあるのです。そして、その神が、この世界の壊れた現実を必ず贖い、回復してくださるという約束があります。その約束に対する神の忠実さこそ、真理・まことなのです[xii]。この神を差し置いて、世界の中の人間が戦い、争い、また仕返しをし、奪い返そうとする、そんな現実を神が正しくさばいて、回復してくださる。このイエスが、私たちの王でいてくださるし、この世界の本当の王でもある。この世にあって、この世の言葉、力、現実に惹かれたり怯えたり翻弄されながらも、そこに縛られることなく、この世に属するのでなく、真理に属する者、イエスを王とする喜びに生きるのです。

「主よ。あなたが私たちの王です。人の力や思い込みや諦めよりも強く、あなたが私たちをいのちに捕らえてくださっていることを感謝します。戦いが続き、人の思惑の方が現実に見える時も、主よ、あなたの深い真実によって、人のうちに働いてください。あなたの十字架と復活を思い起こし、聖霊によって教え、神の恵みの支配で強めてください。私たちを、憎しみや空しい争いから救い出し、主の足跡に従って、愛し、謙り、仕えて、御国を証しさせてください」

[i] イエスの無罪を確信して、イエスを釈放しようと努力する。結果的には、イエスを十字架につけようとする声の方が勝ってしまいますし、それ自体、イエスが見通していたことで、決して敗北とか「ピラトのせい」ということではありませんが、ピラト自身はイエスとの出会いで大きく影響を受けるのです。

[ii] マタイの福音書2章2節。

[iii] Wikipedia ローマ時代の衣装 上流階級

[iv] 朝早くの訪問は、ローマの仕事が早朝からだったことからして、早すぎはしませんでした。日の出には仕事をはじめ、正午には公務を終えるのが、ローマの仕事リズムだったようです。

[v] これは今までも出会った人々と会話するパターンです 。最初の弟子に(1章38節)、カナの婚礼で母マリアに(2章4節)、夜尋ねてきた律法学者に(3章10節)、群衆に(6章26節以下)、姦淫の女を石打にしようとする律法学者たちに(9章1〜8節)、イエスは問いかけます。「イエスは答えによって質問を変えた 福音書を注意深く見てみると、自分に投げかけられた質問にイエスはほとんど答えていないことに気づきます。かえってそれらの問いかけが、恐れの家から出たものであることを暴露しました。「天の国では誰がいちばん偉いですか? 兄弟が私に悪いことをしたら、何回まで赦すべきですか? どんな理由であろうと、妻と離縁することは律法に反しますか? 何の権威でこのようなことをするのですか? 復活のとき、七回結婚した女は、誰の妻になりますか? あなたはユダヤの王ですか? 主よ、その時が来たのですか? イスラエルのために国を再建してくださるのですか?………」。これらのどの問いに対しても、イエスは直接の解答を与えていません。イエスは、誤った憂慮から生まれた疑問として、それを優しく脇に押しのけました。それは、名声、影響力、力、支配への関心から出てきたものです。それは神の家に属していません。それゆえイエスは、答えによって質問の内容を変えてしまいました。質問を新しくし、そうして初めて、答えるに値するものとしたのです。私たちは、自分はイエスに従っていると考えますが、この世がもたらす恐ろしい疑いに、ついそそのかされます。そして、そそのかされているとはまったく気づかないままに、生き延びられるだろうかという疑問にとらわれ、不安におそわれ、神経質になり、思い煩う人間になってしまいます。すなわち、自分自身の生き残り、家族、友人、仕事仲間の一員としての生き残り、自分たちの教会、国、世界の生き残りのために気を揉みます。いったん、こうした恐れによる問いが生活を方向づけると、愛の家から語られる言葉を、非現実的でロマンティックなもの、感傷的で宗教的なもの、役に立たないものとして退けてしまいます。恐れに代え、もう一つの選択として愛が差し出されても、こう言います。「はい。ええ、それは素晴らしいことです。でも・・・・・・」。この「でも」は、いかにがっちりと私たちがこの世に捕らえられているかを示しています。この世は、クリスチャンを世間知らずと呼び、「現実的」な問題を突きつけてきます。「そうですね、でも年老いて誰も助けてくれなかったらどうしますか?そうですね、でも仕事を失って、自分や家族を養うお金がなかったらどうしますか?そうですね、でも何百万という難民がこの国に侵入して、これまでの生活を壊してしまったらどうしますか?」。このような「現実的」な問いを持ち出すのは、次のように語る冷笑的な霊に同調することです。「平和、赦し、和解、そして新しい命という言葉は素晴らしい。でも、現実問題を無視することはできない。他人の無責任さを許してはならない。攻撃されたら報復することだ。いつでも戦争のできる準備をしておくことだ。これまで営々と苦労して作り上げてきた快適な生活を、決して奪われてはならない」。しかし、いわゆるこうした「現実問題」が生活を占めるようになると、瞬く間に、またも私たちは恐れの家に引きこもってしまいます。たとえ愛情深そうな言葉を用い、漠然と愛の家に住みたいと願い続けたとしても。」ナウエン、83〜84ページ

[vi] この「あなた」は強調のσύです。ここだけでなく、繰り返されていますが、一貫してイエスは「わたし」と「あなた」という関係でいます。

[vii] 既に「この世のものではない」のテーマは、以下で言われてきました:ヨハネの福音書8章23節(イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。」、11章9節(イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」、15章19節(もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。)、17章14節(わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。)、16節(わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。)

[viii] 聖書協会共同訳:ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。

[ix] ヨハネにおける「真理」とその類語の用例(51回)は、ヨハネにおける「真理」 アレーセイア アレーセース アレーシノス アレーソース – 聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿 (goo.ne.jp) を参照。

[x] 詩篇25篇5節(あなたの真理に私を導き 教えてください。 あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。)、26篇3節(あなたの恵みは 私の目の前にあり あなたの真理のうちを 私は歩み続けました。)、45篇4節(あなたの威光は勝利のうちに進み行け。 真理と柔和と義のゆえに あなたの右の手はあなたに教えよ。 恐るべきわざを。)、86篇11節(主よ あなたの道を私に教えてください。 私はあなたの真理のうちを歩みます。 私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。)、119篇43 私の口から 真理のみことばを 取り去ってしまわないでください。私はあなたのさばきを待ち望んでいるのです。)、箴言22章21節(これは、あなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に、真理のことばを持ち帰らせるためである。)、23章23節(真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と分別も。)伝道者の書12章10節(伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。)、イザヤ書59章14節(こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。それは、真理が広場でつまずき、正直さが中に入ることもできないからだ。)、59章15節(そこでは真理は失われ、悪から遠ざかっている者も略奪される。主はこれを見て、公正がないことに心を痛められた。)、ダニエル書8章12節(背きの行いにより、軍勢は常供のささげ物とともにその角に引き渡された。その角は真理を地に投げ捨て、事を行って成功した。)、9章13節(このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているとおりに、私たちの上に下りました。しかし私たちは、不義から立ち返って、あなたの真理によってさとくなれるように、自分たちの神、主に願うこともありませんでした。)、10章21節(しかし、真理の書に記されていることを、あなたに知らせよう。私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはいない。)、11章2節(「今、私はあなたに真理を告げる。見よ。なお三人の王がペルシアに起こり、第四の者は、ほかのだれよりも、はるかに富む者となる。この者がその富によって強力になったとき、全世界を、とりわけギリシアの国を奮い立たせる。)、マラキ書2章6節(彼の口には真理のみおしえがあり、彼の唇には不正がなかった。平和と公平さのうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせた。)

[xi] 詩篇31篇5節(私の霊をあなたの御手にゆだねます。まことの神 主よ。 あなたは私を贖い出してくださいます。)、86篇15節(しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。)

[xii] キーナー:ヘブライ語聖書とLXXでの多くの用法に照らして、「真実」には「神の贖いの契約に対する神の忠実さ」が含まれていた。