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2024/8/18 ヨハネの福音書18章38b〜40節「強盗が釈放された過越祭」

総督ポンテオ・ピラトが、総督官邸に連れてこられたイエスと、外からイエスを訴える祭司長たちとの間を、出たり入ったりして何往復もする、と以前言いました。今日の38節の後半、

…こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。

とあるのは、ピラトが二回目に官邸を出てきたところです。イエスと初めての対話をして、広い官邸の間を通り抜けて、外に戻りながら…ピラトは何を考えていたのでしょうか。イエスとの不思議な対話を思い起こし、自分の立場を揺さぶられる思いをしたり、気を引き締めなおしたり。外で待つ祭司長たちにどう応えるか、も考えたでしょう、そして出て来て言うのです。

「…私はあの人に何の罪も認めない。」

イエスには何の罪もない。欄外にあるように、少なくとも「有罪とする理由はない」とピラトは思ったのです。祭司長たちはイエスが反逆者、民衆の蜂起を扇動する、ローマ帝国に対する危険分子であることを匂わせました。ピラトもイエスに

「ユダヤ人の王なのか」

と何度も聞きました。37節でのイエスの答えは

「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです」

とも訳せますが、もしそれが自分を王だと認めたという意味なら、それだけでローマに対する重大な反逆罪になってしまいます。ピラトは立場上「あの人には何の罪も認めない」とは言えなくなったはずです。ですからイエスが言ったのは

「わたしが王であることは、あなたが言っていることです」「あなたが言うのです」

と、政治的な問題にすり替わることに距離を置いた答えなのでしょう。だから、ピラトはイエスについて「私はあの人に何の罪も認めない」と言えました。「あの男は王を自称した」と有罪にはしないし、したくない、イエスに対する好奇心、イエスを釈放しようという思いが芽生え始めるのです。

そしてピラトは続けて

39過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」」

と提案します。ここでピラトがイエスを「ユダヤ人の王」と呼んでいることに気づきます。イエスが言った通り、ピラトが「イエスは王だ」と言っているのです。次の19章14、15節、そして最後は19節でイエスの罪状書きを書くにあたっても、ピラトはイエスを「ユダヤ人の王」と呼び続けます。自分で自称するなら危険分子だけれども、そういう政治的な「王」とは違う意味で、ピラトはイエスと王と呼びます。彼が生きてきたローマの政治のドロドロした世界とは全く違う「王」である、という思いを抱き始めているようなのです。そして、この過越の祭りに免じて、イエスを釈放することを提案します。しかし、これはピラトの目論見が完全に計算違いであったことを証明する結果になってしまいます。

40すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。

この「強盗」も欄外注で「あるいは「扇動者」」とあり、ルカ23章19節で

「都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者」

と言われます。単なる強盗犯というより、ローマへの反乱を扇動した暴力的なリーダーでしょう。この過越の祭りで誰かを恩赦にするに当り、イエスがいなくても、バラバを恩赦にするよう民衆は求めるために集まったのであれば、バラバは極悪非道の犯罪者というより、ユダヤ人にとっては憎いローマ帝国に反乱を挑んだ英雄に見えたのでしょうか。イエスには告発できる悪がなく、少し話したピラトでさえ、何の罪も認めなかったのに、それよりも、強盗とも呼ばれるバラバの釈放を要求した。これは、ピラトの予想外の展開でした。勿論、ピラトが恩赦の対象にする提案で取引なんぞせず、罪はないから釈放する、と言えば良かったのに、とも思うのですが、ピラトの読み違えを責めるより、イエスを選ばず、強盗バラバを選んだユダヤ人の罪の現実にこそ、ヨハネは目を留めています。

1章11節この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

一章以来繰り返されてきたこの民の頑なさ、忘恩ぶりがここにピークを迎えます[i]。イエスが奇跡や目覚ましいことをしてくれたら喝采するけれど、自分たちの好みや損得に合わないと思うと豹変する人間の姿です。12章でイエスがエルサレムに入ってきた時、人々はかつてのマカベア戦争の勝利での凱旋行列を思わせる、棕櫚の葉を振っての大歓迎で、

「ホサナ。祝福あれ、主の名によって来られる方に。イスラエルの王に」

と叫びました。しかし、今回「再び大声をあげて」なのは、イエスではなくバラバを、という叫びでした[ii]。ローマ軍を蹴散らしてくれると期待したのに、反乱するどころか捕まって、その上ローマ総督ピラトから同情され、恩赦を提案される情けなさ…。それよりは、反乱を試みるだけは試みたバラバの方がまだいい。そういう人間の心理でしょうか。それは、この人々だけでない、神から離れたこの世界の姿ですし、私たちもただ自分の好みや期待ではイエスを退ける自分だと思い起こさせられるのです。

強盗という言葉は、このヨハネ福音書では10章に二度だけ使われました。羊を世話する羊飼いではなく、盗人・強盗、奪ったり殺したり滅ぼす、偽羊飼いという話でした。それは当時の指導者たちへの批判であり、イエスは

「わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。」

と言われ、ご自分が良い牧者である、と言われたのですね。しかしここで、人々はイエスでなく強盗を選ぶ。それは私たち自身、私たちを生かす主の働きよりも、この世的に見栄えがする、魅力がある、力がありそうに思える偽者に惹かれ、そちらを選んでしまいかねない、という事実に重なります。

けれどもあの10章の文脈でイエスは言っていました。

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

と。羊は視力に癖があって、遠近感を見誤ります。良い羊飼いと強盗の見分けがつかないことさえある、愚かな動物です。だからこそ、羊飼いはその羊の力を過信せず、羊飼いの方が羊のために手間をかけ、痛みや損を覚悟し、いのちを捧げるつもりでいてくれます。イエスはこの時、縛られ、唾をかけられ、拳や鞭で打たれ、英雄とは程遠い惨めな卑しい姿でいますが、その卑しさこそ、良い羊飼いが羊のためにいのちを惜しまない姿でした。イエスは、ご自分よりも強盗を選ぶような羊を導く、よい羊飼いであるのです。

過越の祭りでは、誰か一人を釈放する、という慣わしがあったとは、福音書以外に記述がないのですが、ユダヤ総督が民衆との間にこういう約束を交わしたことはあり得たでしょう。それよりもしかし、過越の祭りは確かに本来、囚われていたイスラエルの民が解放されたことを祝うお祭りでした。そしてそれは、イエスによる過越を指し示すものでした。イエスひとりが犠牲となることによって、主の羊たち、主の民全員が、釈放されたのが、この時に完成した、まことの過越です。強盗以上に蔑まれるほど卑しくなった――それは、私たちのためでした。

強盗バラバの名は、ヨハネではこの40節に出てくるだけです。バラバ。何となく悪党っぽい響きがしたり、ウルトラマンAの怪獣の名前になったりで[iii]、先入観があるかもしれません。
1950年に書かれた小説『バラバ』は、この後のバラバの人生を描いた傑作です[iv]。創作ですが、現代人の生きづらさ、疑い、葛藤をバラバに重ねます。
実際のバラバがどうなったかは分かりません。少なくとも、恩赦で生き延びて幸運だった、と言いたいのではないでしょうし、バラバのせいでイエスが死んだ、と責めるのもお門違いです。イエスではなくバラバを、と叫んだのは人々であり、そこには私たち自身の姿、しばしば選択を誤り、神の道よりも自分の目に好ましい道を選ぶ現実が投影されているのですから。そして、そういう私たちのために、罪のないイエスが死んでくださいました。

問題は、イエスかバラバか、ではありません。イエスのゆえに、バラバも私たちもいのちを与えられたこと。その厳粛で、本当に喜ばしい過越を記念して、私たちが日々、愚かさや憎しみ、裁きや頑なさから解放されることを願い続けることです。

「私たちの王、罪のない主イエスよ。十字架の恵みを祝うと言いつつ、なお目の前の判断において、あなたを捨て、憎しみや愚かさで曇った目でいる私たちであることを思い、あなたの憐みにより、整えてくださるよう、願います。バラバにも、誰にでも、私たちにも、あなたは何度も再出発をさせてくださいます。力強い憐みがあることを感謝します。私たちを新しくし、思いも言葉も整え、間違った言葉を言い直し、あなたの名とお互いの名を呼ばせてください」

イエスがピラトに鞭打たれたとされる場所に建てられた「鞭打ち教会」。ステンドグラスは、中央にキリスト、左に手を洗うピラト、右に釈放を喜ぶバラバを描いています。

[i] ヨハネ3章32節(この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。)、5章43節(わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。)など。

[ii] 「再び大声をあげて」とありますが、大声を上げた(ギエクラウガゾー)とある行動はこの夜にはなく、前回のこの語が使用されるのは、12章13節でのイエスのエルサレム入城の時です。次は、19章6、12、15節。

[iii] 殺し屋超獣バラバ (ころしやちょうじゅうばらば)とは【ピクシブ百科事典】 (pixiv.net)

[iv] 『バラバ』|感想・レビュー – 読書メーター (bookmeter.com)