ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2024/6/9 ヨハネの福音書17章6〜10節「神のものである幸い」333主よ我をば
 ヨハネ17章、最後の晩餐でのイエスの祈り、二回目です。初めの「子[イエス]の栄光を現してください」は、自分が輝く栄光、高められることではありませんでした。今日の、

6あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。

と続いて、父から委ねられた弟子たちに父の御名を現すこと。これがイエスの栄光です。最後10節でも、

10わたしは彼らによって栄光を受けました。

とあります。20節では

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

とあって、広く後々信じる人々のことも含めています。私たちも含まれています。

 この6節以降イエスは「彼ら…彼ら」と繰り返します。

「彼らは…彼らに…」

ここだけで8回、17章全体で35回です[i]。25節だけ「この人々」と言い換えて、一節残らず「彼ら」です。目の前にいた当の弟子たちはどう思ったでしょう。振り返ってこの「最後の晩餐」の席で、イエスは突然立ち上がって弟子たちの汚れた足を丁寧に洗ってくれました。全員の足を洗った後、席に戻って別れの説教を話し続けた、というのが13章から16章でした。戸惑っていた弟子たちも、徐々に別れを本気で語っていると実感が湧くと同時に、イエスが紛れもなく神から来たことを信じますと言わずにおれなかった。その後、途切れなく始まったのがこの祈りです。

1節で

「目を天に向けて」

とあるのは、聖書の時代の祈りの姿勢です。いつからか「首を垂れて目を閉じて、手を組んで」が祈りの姿勢と言われますが、聖書の文化では立って目を天に向け、両手も差し出して祈られました。しかしここでイエスは、席から立ってとはありません。抑々(そもそも)「祈った」でもなく「言われた」。食事の席に着いたまま、ふと目を天に向けて、唐突に「父よ」と祈り始めたのでしょうか。そんなイエスに、弟子たちはまたも面食らったでしょう。しかもそれは自分たちを置き去りにした神との会話ではなく、「彼らは…彼らに」と自分たちのことをずっと話しているのです。日本語には元々「彼」「彼ら」という言葉はありませんから、「この人たち」の方がしっくり来るかもしれません[ii]。目の前で、目を天に向けて、「この人たちは」「この弟子たちは…」と自分たちのことを話してくれている…どんな感慨でしょう。

特にここでは「あなたのもの」という言い方も繰り返されます。

「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださった。」

父が弟子たちや後々の信者たちを与えてくれた。まるで父が子に贈る贈り物(プレゼント)のように、弟子たちのことを語っている。

あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

御父が御子に弟子たちを与え、御子は弟子たちにみことばを与え、そのために、弟子たちは御子が御父から遣わされたことを知って、御父が御子を自分たちに遣わされたことを知って…と考えるとややこしくなりますが、大事なのはこの与え、与え合う父と御子の関係の中で、私たちが贈り物として受け入れられていること、父と子のものとされている、ということです。

わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

神が子に弟子や何かを与えたとしても、それで神のものでなくなりましません。人間の所有とは土台が大きく違うのです。人間なら、くれたならもうお前のものじゃない、でしょう。また「俺のものはお前のもの、お前のものは俺のもの」なんて酷い言い草です。しかしそんな摩擦は御父と御子にはありません。イエスは私たちを御父からの贈り物であり、かつ御父との共同所有を当たり前のように喜んでいます。人間が人や物を「自分のもの」にしようとするのと違い、作り主なる神が私たちを取り戻してくださる時こそ、私たちは自由になり、本当の自分らしく生きることが出来ます。

イエスはみことばを弟子たちに与えて、いのちの道、神の掟を教え、私たちを解放し、成長させてくださいます。だからここに彼らがみことばを「守りました」「本当に知り…信じました」と言われるのです。私たちが信じたりみことばを守ったりすることが土台で弟子になるのではなく、父が御子に私たちを与えてくださるから、みことばを教えられ、信じ、守ることが始まるのです。そもそも「守った」と言われてはいますが、弟子たちはまだまだ幼く、この後すぐイエスから去って行こうしているのです。それを百も承知のイエスが、しかし彼らの頼りない行動も宝物のように受け止めています。彼らはあなたのもの、そしてわたしのもの、愛おしんでいて、彼ら、彼ら、と口にして思ってくださっています。

改革派神学にはウェストミンスター信仰基準と並んで有名な信仰告白として「ハイデルベルグ信仰問答」があります。その問1はこう言います。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。(以下略)」[iii]

私たちの究極の慰めは、私の持ち物、私が富や名誉や宝を持っていることにはない。私たちの持つどんなものも究極の慰めにはならない。私自身でさえ自分のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである。ここに慰めがある、と始まるのがハイデルベルグ信仰告白です。

それがここでイエスの側から言われています。彼らはあなたのものです、あなたが下さったのでわたしのものでもありますと楽しくて仕方ないように言ってくださっています。未熟な弟子たちです。大宇宙のちりのように小さな私たちです。しかもその私たちをご自分のものとする以上、その人間の罪のためにイエスは多大な犠牲を引き受けることにもなります。あの創世記3章エデンの園で、禁断の木の実を食べた時、アダムは何と言いましたか。

「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」[iv]

そのアダムと何と違うことでしょう。「あなたが与えてくださった彼ら」と喜ぶ。その宝物のために、十字架にかかることを、強いられた犠牲とか「貧乏(びんぼう)籤(くじ)」どころか、光栄だ、栄光だ、とさえいうのがヨハネの福音書のイエスです。私たちは、この方のものです。

私たちが、主のもの、イエスのものである。しかしそれだけでいいじゃないか、そこだけに逃げ込むことでもありません。先程の「ハイデルベルグ信仰問答」も、私たちが主のものなのが慰めだ、とだけけで終わりません。続く問二は「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために」は、自分の罪と悲惨がどれほど大きいか、どうすれば救われるのか、そしてその救いに対して神に感謝して生きるとはどういう生き方か、を知ることが必要だと言い、問129まで続きます[v]

これが作られたのは宗教改革の渦中で、社会が混乱して、貧しさや病気や死など慰めが見つけにくいような時代でもありました。またプロテスタントの中でもルター派と改革派の確執があった――言い換えれば、教会の中での考えの不一致も大きな問題でした。そしてハイデルベルグという、今でも多くの観光客が訪れる美しい街で、経済や学問や芸術など市民生活を営んでいく。その土台となるために作られた信仰問答です[vi]

世にある生活の素晴らしさや生きていく上での困難、罪や惨めさを見つめつつ、でも惨めな気持ちや罪に捕らわれて生きるのではない。
私たちは、私たちの主のものであるという、動かない慰めに立ち戻りながら、生きていくことが出来る。
私たちをご自身のものとしてくださり、祈ってくださっているイエスにあって、勇気を出す――心を取り戻しながら生きることが出来る幸いがあります。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神。私たちはあなたのものです。その幸いをみことばを通して教えられ、御言葉に生きる喜びを与えてください。あなたは私たちに沢山の慰めや幸い、美しいもの、尊い生涯を下さっています。罪や惨めさに慰めを失いそうになるとしても、あなたのものであることに慰めと心を取り戻させてください。ここから遣わされていく全生活が、あなたへの礼拝であり、あなたへの感謝であり、あなたの力強い証しでありますように。」

写真は、ハイデルベルグの街並みとハイデルベルグ城(現代)

[i] 6あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。7あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。8あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。9わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。11わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。12彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。13わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。14わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。15わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。18あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。20わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。21父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。24父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。25正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。26わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

[ii] https://ameblo.jp/shin-ji-e/entry-12819749060.html

[iii] 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。主は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。」詳しくは、こちらの過去記事をお読みください。問1「唯一の慰め」ローマ書8章38~39節 https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/6a1d033fa0715da85bb04bf274a2a101

[iv] 聖書の最初に「与える」が出てくるのは、神から人間への宣言ですが、その後、人間が「与え」る時には、そのニュアンスが大きく変わっていきます:1章29〜30節(神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。)、3章6節(そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。)、16節(「人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

[v] 「問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。答 三つのことです。第一に、わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか、第二に、わたしのあらゆる罪と悲惨からどうすれば救われるのか、第三に、そのような救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか、ということです。」 問2「だから感謝して生きる」マタイ5章16節

[vi] 参考、ハイデルベルク信仰問答の実践的方向性 1 ハイデルベルク信仰問答450年 「カテキズムは生きるもの」 記念講演会で齋藤五十三氏 2013年11月2日 https://core.ac.uk/download/pdf/235293562.pdf