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2024/6/2 ヨハネの福音書17章1〜5節「キリストを知るいのち」招詞エレミヤ32章38~41節a[i]

私たちが世界中の教会とともに祈る「主の祈り」は、主イエス・キリストが弟子たちに教えた祈りです。今日のヨハネ17章は主イエス自身が祈ったという意味での主の祈り、それも伝えられている、最も長い、イエスの祈りの記録です。イエスが十字架にかかる前、最後の晩餐の席での長い説教の後、この17章1節から26節の祈りが捧げられました。これは「大祭司の祈り」と呼ばれます[ii]。神と人間との間に立つ大祭司として祈る。十字架の死を前に、しかし決して悲壮感や諦め、敗北感ではなく、この時のため、という思いで祈るのです。

 1これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

イエスは今まで「まだ時ではない」と言ってきたのが、十字架を前にした12章23節で「時が来ました」と言いました[iii]。この最期こそイエスが見ていた、自分の時です。その死においてイエスは、ただ自分の英雄的な死とか、使命感に目を奪われるのでなく、父なる神の栄光を現すことを願っています。そして、そのように父なる神の栄光を現すことこそ、子なるイエスの栄光だといわれています。そして、父は子に、人にいのちを与える権威を与えました。

あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。

「支配」と聞くと「権力」とか上から思いのままにするという嫌な響きがありますが、父がイエスに与えた権威は「永遠のいのちを与えるため」の権威です。力づくに権威を振るうのでなく、力も着ている服も、尊厳も栄誉も奪われる十字架の死を引き受ける。その苦しみと恥辱の中でも、イエスが父を信頼し、人々を愛していのちを与えてくださる。それが「子の栄光」であり、それによって父の栄光を現す、という広がりがこの冒頭にあるのです。

この17章でイエスは、いくつかの「~してください」を願っています。1節同様

わたしの栄光を現してください。

また、11節と15節では

11…あなたの御名によって、彼らをお守りください。…15…お願いすることは、彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。…17真理によって彼らを聖別してください。

そして、21節以下では、

21…すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。…24…わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。」

大きく三つの願いが言い表されます。これら三つは別々でなく[iv]、一貫しています。イエスが父に求める栄光は、死と復活を通して、弟子やその先に信じる人々が「一つ」とされることです。一つとなるためにイエスが自分を捧げる事こそイエスの栄光であり、父の栄光を現しています[v]。2節に「すべての人」と二回ありますが、最初の「すべての人」は「すべての肉」(肉体あるすべての人)で、二つ目の「すべての人に…永遠のいのちを与える」は「すべてall」という言葉で、しかも単数形。父が下さった人たち全員の総体を指しています。全員一人一人に、というのでなく、全体として永遠のいのちを持つのです。そして

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

私が永久に死なない命ではなく、父なる神とイエスを知ること――単なる知識ではなく、深く人格的に知り、信仰・愛・友情と言い換えられる、強く親しい繋がりを持つ――それも個人個人でなく、ともに父とイエスとを親しく知ることで結び合わされ、一つとされる…そういう、豊かないのちが永遠のいのちです。命とは、繋がりです。繋がりのない、自分だけ生き延びる「永遠」なら、「永遠の死」と変わりません[vi]。そして、唯一のまことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知る――私たちの神、私たちに御子をさえ与える神とのつながりが与えられる繋がりこそ「永遠のいのち」なのです。そして、このいのちは、一人ひとり個別に神から与えられるものではなく、「あなたが下さったすべての人」全体に与えられるいのちであり、この17章の祈りはそのような「一つ」を祈る祈りとして展開していきます。その「一つ」については、これからまた見ていきましょう。しかし今までにも、そのイエスの見ていた願い、求めている栄光は現されていました。

わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。

今までイエスが成し遂げたわざは、父の栄光を現してきました。2章では祝宴が底つくような婚宴を惜しみない奇跡でもてなしました。3章では地位はあっても迷っていた議員のニコデモと、4章では敵対関係のサマリア人の曰くありげな女性と、イエスが語り合った姿は、父から与えられたわざでした。9章では、生まれつきの病気で「家族の誰かの罪のせいだ」と決めつけられていた人を立ち上がらせ、11章では、家族の死に泣く姉妹とともに涙しました。それらのわざは全て、父の栄光を現してきました。その地上でのわざを成し遂げて、それらのわざが準備してきた最後の目的、いのちを与える時が来たのです。

「与える」はこの後も繰り返されます。2節の「下さった」も「与える」と同じ言葉です。この言葉は17章で17回も使われ、ヨハネの福音書全体では75回も繰り返されます[vii]。父は世に御子を与え、御子に人々を与え、御子は人々にいのちを与え、みことばを与え…と矢印で書けばややこしくてますますわからなくなるような与え、与える関係が、この17章には炸裂しています。その与える神が、与えた御子に、与えたみわざが、御子に与えられた人々(私たち)に、与える神を示している…。こんがらがってしまいそうです。でもそれがイエスのなさったことであり、イエスが現した神の栄光でした。神は永遠からそのような与える神なのです。

父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

世界が始まる前に、父と子とが一緒に持っていたあの栄光。それが現されたのが、イエスの十字架と復活、そして、それを信じる人々の教会の歩みです。華やかで輝かしい、人々が酔い痴れる様な栄光ではありません。十字架という最低の死です。それを与えられるのは、失敗した弟子や敵対する民族や貧富の格差、障害や差別への偏見でバラバラになっている世界に生きる人々、そういう私たちです。その私たちが、父なる神とイエスとの与え、与える交わりの中に入れられて、永遠のいのちをともに戴いている。それは、イエスがこう祈り、そのためにご自身を捧げる大祭司として立ってくださったからなのです。

このイエスの祈りがなければ、私たちが今ともに集まっていることはありません。私たちのために、イエスが祈りとご自身を捧げたからこそ、私たちはイエスを知り、永遠のいのちを告白できます。「永遠のいのち」を聞いて来世の幸福しか考えず、「支配」という言葉に抵抗を覚えたりするかもしれません。「一つ」とされるなんて言われてゾッとするのは、身勝手からか、赦しがたい体験があるか、違う理由もあるでしょう。それ程この世界には深い破綻があります。イエスが遣わされなくても何とかなった世界ではないのです。だからこそ神が御子を遣わし、イエスが私たちの大祭司となり子羊となりました。イエスが私たちに与えるものは、私たちが願い、求め、期待するよりも遥かに大きく深い救いです。慰めに満ちた癒し、赦しと和解です。そして、イエスが愛してくれたように、互いにも愛し合い、心から繋がっていく繋がりです。

私のために祈り、思いがけないいのちを下さるのがイエスです。そのために、いのちを与えたイエスに、私たちはずっと祈られて、永遠のいのち・生活・人生をいただいています。それはこの世界が始まる前からの神の栄光の現れ――だとしたら、この世界よりもこのイエスの願いは確かで、必ず成し遂げられる――そういう祈りの中に、私たちの歩みが今あり、これからもあるのです。この大祭司の祈りは、私たちの大祭司の、私たちのための祈りです。

「父なる神、惜しみなく与えるあなたは御子を私たちに与えられました。御子は私たちの信仰がなくならないよう祈るばかりか[viii]、私たちを立ち上がらせ、人を力付ける者としてくださる大祭司です。それゆえ私たちも目を天に向けます。あなたの恵みによって一つとしてください。形や見せかけの一致でなく、心からの赦しと和解に向けて、一歩一歩お導きください。私たちの祈りに勝る、御子の祈りをお聞きください。ともに祈り、ともにパンと杯を分かち合います」

[i] エレミヤ書32章38~41節:彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。39わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、40わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。41わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える。」

[ii] この祈りは、ルター派の神学者デイヴィッド・キトレウス(1530-1600)から初めて受け継がれました。( F.F. Bruce )

[iii] イエスと語り手は、2:4 以降 (7:30、8:20) イエスの「時」が「来る」と宣言していました。12:23 からは、ついにその時が来たと宣言していました (12:27、13:1、16:32)  ヨハネにおける「わたしの時」 イエスの時 – 聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿 (goo.ne.jp)

[iv] これは三つの別々の願い、あるいは、まずは「イエスと父の栄光」という最優先の願い、次に目の前の弟子たちの守り、最後に、すべての人が一つになるという優先順位が低い、理想のリクエスト――そんな三段構成というよりも、一つの祈りです。

[v] 「この祈りはつまるところ信じる人々の間の一致を求める嘆願である。このために提示されている模範は、父がイエスの内におり、イエスが父の内にいるという、そうした在り方である(二一節)。もし弟子たちがこのような形で一致しているならば、それは世の人々に信仰の動機を与えるはずである(二二節)。ヨハネによる福音書 は「世」を非常にみじめに考えているので、世の回心を達成し得るのはイエスに従う者たちの一致に対する驚きにほかならないと言うのである。イエスは神が世から選び出して彼に与えた人々に神の名を現した(六、二六を見よ)。イエスはまた彼が父から賜わった栄光を彼らに与えた(二二節)―――明らかに彼らに一致をもたらす のに十分なだけの栄光を与えたのである。というのは、より大きな栄光は「わたしのいる所に、共におらせる」(二四節)という、のちの時のために取って置かれるからである。」スローヤン、348ページ

[vi] 「永遠のいのち」は不老不死や不滅の生命力とは違いますが、長寿をもたらす食べ物や呪文という神話やSFは昔から今まで事欠きません。そうした話でも、何かの力や道具が命を生かしてくれるのです。

[vii] https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/579b0ffe85da4370c5260467f5d16b80

[viii] ルカの福音書22章23〜24節:シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。24しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」