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2024/6/16 ヨハネの福音書17章11〜19節「遣わされた者として」招詞エレミヤ書32章38〜41節a

ヨハネの福音書を読み続けながら、最後の晩餐の長い説教と祈りを見ています。

来週はヨハネ説教はお休みします。日本長老教会の設立記念行事、「一つ教会」という告白を目に見える形で表す講壇交換です。今日も設立30周年の記念ムービーを見ますが、その中に出てくる歌に「Make Us One(私たちを一つとしてください)」というゴスペルがあります。「一つとしてください」――これはこのヨハネ17章でイエスが祈っている祈りそのものです。

11わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。

「お守りください」の目的は「一つとなるため」です[i]。使徒パウロはエペソ書1章9~10節で、全てのものが一つに集められることこそ「神の奥義」だと言います[ii]。聖書の最初の創世記で神は人が一人でいるのは良くないと言われ、別人格のもう一人を作り、その二人が一つとなる、というデザインを明らかにされました。今日の招詞を三週前と同じ、エレミヤ書32章38~40節としましたが、そこでも「一つ」が言われていました[iii]。贖いを英語でAtonementと言いますが、at-one-ment「一つとする」というのが語源です。イエスも聖書も神の愛を説き、互いに愛し合うことを教えますが、それは、愛という道徳を言いたいのではなく、この「一つ」という大きなゴールを心から、リアルに受け止めるということです。このヨハネ17章のイエスも、その大きなデザインが念頭にあって、「御名によって守る」を祈るのです。

「御名によって」とは、神の名前に込められた、神ご自身のご性質、神がどんなお方か、それに相応しく、という意味です。聖なる父[iv]、偽りや汚れなく、綻びも弱点もなく、全き憐みの神が、私たちを集めて、結び合わせ、傷を癒し、心からの「一つ」としてくださるのです。

また、だからこそ私たちはこれを、神を知ること、みことばによって理解し、肖(あやか)るのです。

12彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。

14節で「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。…」と言い換えられ、17節では

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

と言います。みことばを通して父を知らせ、父の私たちに対する御心を学び、それによって私たちを「一つ」のうちに招き入れてくださった。ですからこの「一つ」は、イエスと御父の一体に根差していて、私たちの努力や工夫には寄りません。11節最後の「一つになるため」は「一つであるため」の意味(ニュアンス)です。同じ「守る」という言葉でエペソ4章3節は

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい

と勧めます[v]。「一致しなさい」ではなく「一致を保ちなさい」。教会は与えられた一致に立つのです。しかしそれを世は憎みます。

14…世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」

世とはヨハネの福音書で繰り返される、神から離れたあり方を指す言い回しです。神から離れた世は、恵みならざる言葉で不安や競争心に駆られた生き方で納めたいのです。しかし、

15わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」世から取り去って、憎まれたり誘惑されたりしないほうがはるかに楽ではないかと思います[vi]。しかし神もイエスもそれは願いません。世から取り去ることではなく、世にあって悪い者から守られることを願う、と言います。

これは「あの悪い者」という言葉で、サタン・悪魔のことです。悪しき力・人格が、この世界に働いていて、神の御名に敵対しているし、出来れば神の民をも惑わそうとしていることを聖書は何度も教えています。特にここでは、イエスが与えた「御名によって一つ」を脅かす悪でしょう。外側からイエスへの信仰から引き離そうとする攻撃も勿論侮れません。でも加えて、世は、神を信じないままでの「一致」にすり替えようとする――人間が神から与えられた「一致(一つ)」を求める深い願いに付け込んでくる。一方は、赦しや和解は無理だと、好ましい人たちとだけつるむ極端。反対は、上から強制的に一致や赦しを押し付ける極端です。教会も「一つ」を間違ってしまう。主イエスにあって一つとされた御業を棚上げして、自分たちで一致しなければと、同調を強いることが起きてしまう。

異なる私たちが、一人の神を礼拝して、同じ信仰を告白し、一つの御霊に導かれていることを差し置いて、音楽の一体感、雰囲気の高揚感、果ては教会でユニフォームを作って「一致した」気になる、なんて例も聞いたことがあります。何よりも大きな問題は、そうした何かがあったりなかったりしたら「一致した/一致がない」と考えてしまうことです。イエスにあって一つ神の民とされて、本当に心から一つに集められる約束を忘れて、自分たちだけの安全の守りに逃げたり、この世の「一致」と同じような「一つ」を求めること…それこそ「悪い者」の思う壺です。そのような紛(まが)い物(もの)の一致でなく、父と御子とが一つであるように、私たちが「一つ」であるよう守ってくださいと祈るのです。そしてそれは、内向きな「守り」ではなく、積極的に派遣されていくための守りです。

18あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。

聖別とは、聖なるもの、神のものとして特別に取り分ける、という原意です。しかし、ここでも世俗に染まらないよう取り上げる、というのとは反対に、この世にありながらこの世のものならぬもの、みことばの真理を頂いた者として派遣されていく、という聖別なのです。

ゴスペル曲「Make Us One」は全国修養会で歌われた動画が使われます。その紹介でリーダーがこんなMCをしました。

Make Us Oneとは私たちを一つに、ということと、私たち一人一人の生き方がバラバラになっているのを一つにしてください、という意味でもある。

親子や夫婦、親しい関係も、違いや罪やギクシャクしてどうしようもないものがある。大きくは戦争や対立にもなっている。教会や兄弟姉妹も、最も赦しと愛を必要とする交わりに他なりません。一致なんてもう諦めるか、無理やり一つにまとめるか、それが世の両極ですが、神はイエスをこの世界に遣わして本当の「一つ」を始めました。私たちを神ご自身と完全に和解させるため、そしてその和解が私たち個々の、内側のバラバラな生き方、秘めた痛みや闇をも癒して一つにし、私たちの互いの交わりも罪の赦し(他者を赦すことも、赦しを受け取ることも)と互いに仕え合い愛し合うというみことばの中に置かれることです。そしてその「一つ」の証しとしてバラバラな弟子たちを「愛し合いなさい」という戒めとともに世に遣わしました。

私たちはここでみことばを聞き、キリストの贖い、罪の赦しと愛を与えて私たちを一つとするという、神の大きなストーリーの一部である自分を思い出し、ここから遣わされていきます。出ていく場では争いがあり、見せかけにガッカリします。しかし目を凝らせば、確かにその隅々で、人が赦しを願い、和解を涙して喜び、偽りの平穏無事を拒んでいる姿も見えるでしょう。主の息吹は働いています。

私たちも、内向きにならずに、遣わされた場で主の御名による「一つ」を証しする。今はまだその途上にあって不完全で痛みがあり悪い者の企みから守られなければならないことも率直に認めます。赦しと和解を諦めないし、上辺だけの一致や心を殺した無理やりな「一致」は拒みます。世を作られて、一つとする主が、その先駆けとして私たちを遣わされ、既に始まり、やがて完成する。

その「一つ」を引き下げずに証しするのです[vii]

「聖なる父よ。御子の私たちのための祈りに包まれ、その祈りを成し遂げてくださるあなたの御手の中に、今も、これまでもこれからも私たちはここにいるのです。主イエスの御名によって一つにしてください。主の御名ならざるものによって取り繕い、恐れや罪を隠し、儚い安心を得ようとする誘惑から守ってください。あなたにしかできない一致をあなたがしてくださる、この恵みを慰めと喜びと献身の思いで聞かせてください。今日もここからお遣わしください」

[i] 一人一人の安全も勿論ですが、弟子たち全員の一つ、一致の守りを祈るのです。安全は人にとって最も基本的な欲求の一つですが、イエスは「その最低限の安全だけでいい、一つなんて大きな理想は諦めて、せめて安全をお守りください」とは言わないのです。最高の目的である「一つ」を引き下げずに「一つ」を守ってくださいと、父に祈っているのです。しかも、ここで「わたしたちと同じように」、つまり天の父なる神と御子イエスとが一つなように、です。父と御子、そして聖霊も神は永遠から一つ、三位一体です。この神の関係と同じように、彼らが一つになるよう「御名によってお守りください」とイエスは願っています。

[ii] エペソ書1章9~10節:その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

個性がなくなるとか、表面的な一体とかでなく、イエスがいのちを捧げてくださり、そこに父なる神が働いてくださって初めて可能となる、深く、尊い、信じがたいほどのことです。更に、エペソ書2章14節(実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、)、16節(二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。)、18節(このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。)、3章3~6節(先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。4それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。5この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。6それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者となるということです。)、9節(また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。)

[iii] エレミヤ書32章38~41節:彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。

[iv] 11節の「聖なる父」とは、ここにしかない、ここ以外では見つからない、イエスの神への呼びかけです。

[v] ギテーレオー。

[vi] 旧約にも、モーセも(民数記11章15節:私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」)、エリヤも(Ⅰ列王記19章4節:「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」)、ヨナも(ヨナ書4章3節:ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」)と祈らずにおれない経験をしました。

[vii] 「派遣」というテーマでは、池戸キリスト教会の教会学校教師会で、次のテキストを読んで学びました。

キリスト新聞社「ミニストリー」第29号 54~57ページ

「宣教学特講~ミッションはインポッシブル? 中道基夫

「宣教的宗教キリスト教は、宗教学的に言って、イスラム教や仏教と同様に一定の民族が自動的に所属するような民族的宗教ではなく、最初期からその教えを宣べ伝え、信仰へと人々を導き、信徒数を拡大していく宣教的宗教であると言えます。ユダヤ教内の小さなーメシア運動であったキリスト教は、宣教することなしに存続することも、教会を形成することもありませんでした。

初期キリスト教会の正確な教勢的統計を知ることはできません。しかし、象徴的な数であると思われますが、ペンテコステ以前のイエスを信じるグループについての言及として「百二十人ほどの人々がーつになっていた」(使徒1・15)をーつの基準として考えるならば、その120人のグループが、300年後には地中海社会の支配的な宗教となったと言えます。その信者も330万人になっていたと推測されており、2万7千倍も拡大したことがうかがえます(ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」)。そして、現代は全世界に加億人以上もの人がキリスト教徒であることを考えるならば、キリスト教は、過去2000年の間に、まさに宣教によって、1700万倍も大きくなったと言えます。

イエスの宣教命令では、キリスト教が、教会が宣教する根拠とモチベーションとはいったい何でしょうか。現代の宗教間対話の時代に、なぜキリスト教は宣教するのですか、と問われたら何と答えるのでしょうか。社会的な組織としての教会を維持拡大するためでしょうか。

教会の宣教を支えてきた最も大きな力は、すべての福音書(マタイ28・19ー20、マルコ16・15ー18、ルカ24・46ー49、ョハネ20・21-23)と使徒言行録(1・6~8)に記されているイエスの宣教命令です。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28・19―20)

五つの宣教命令にはそれぞれ特徴があり、強調点は違っていますが、イエスは弟子たちをそして教会を、すべての民に、全世界に、地の果てに至るまで遣わし、イエスの証人となり、福音を宣べ伝え、教え、解放を告げ、弟子にすること、洗礼を授けること、悪霊を追い出し、病人を癒すことを命じられました。イエスがガリラヤで、そしてエルサレムで活動していたのとは打って変わって、教会はイスラエルという枠を越え、外へと向かっていくベクトルを持つことになりました。

このイエスの宣教命令に、教会は宣教の根拠を持っています。

派遣する神・イエス・聖霊

キリスト教が宣教的宗教であるというのは、単に統計学的な数字だけが表しているのではありません。また、イエスの宣教命令にその根拠がありますが、キリスト教そのものの本質において、キリスト教は神によって派遣され、宣教する宗教です。宣教とは、教えを宣べ伝えることとして理解されますが、その根本は「派遣」(ラテン語でmissio)にあります。

旧約聖書の中で、神は遣わされる神です。神はアブラハムを遣わしました。そしてモーセに対しても「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト3・10)という言葉と共に、神の使命を全うするためにエジプトに遣わされました。預言者も、神の言葉を携えて、神に派遣されています。キリスト教が信じる神は派遣する神、宣教する神である。

そして何よりも、神は、すべての人に救いをもたらそうとされ、そのために神はみ子イエス・キリストを派遣されました(ヨハネ3・17「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」)。

イエスも、弟子たちを派遣します。イエスとその弟子たちはどこかに居を構えて、そこに集まってくる人々を教えていたわけではなく、町々を周り、人々を訪問して宣教していました。イエスは、弟子派遣命令(マタイ10・5~42、マルコ6・7~13、ルカ9・1~6)をもって、弟子たちを宣教活動へと派遣しました。そして、イエスの宣教命令が、まきにキリスト教が宣教的宗教である根本的かつ歴史の中にその実績を生み出し、今日のキリスト教を形成したのです。

聖霊も、宣教的性格を持っています。使徒言行録によると、教会の宣教的活動の始まりは聖霊降臨にあります。聖霊を受けた使徒たちは、福音を語り始め、それを聞いた人々は洗礼を受け、3千人の人ほどが仲間に加わり、教会が形成されていったことが報告されています(使徒2章)。聖霊は弟子たちを派遣し(使徒13・4「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ」、使徒8・29「“霊”がフィリポに」)、語るべき言葉を与え(ルカ12・12、ヨハネ16・13)ます。この力を受け、教会は宣教する教会として成長していきます。教会は、自分たちの宣教を聖霊の働きであると理解しています。

他人事としでの宣教

ところが、今日、私たちはこの宣教命令をどれほど真剣に受け止めているでしょうか。教会に来られた方にキリスト教を教えようという意識はありますが、教会から派遣されて福音を宣べ伝えようという意識は薄れつつあります。ましてや、全世界に出て行って宣教をしようとする意識はまったく弱くなってしまったのではないでしょうか。また、宣教の根拠としてイエスの宣教命令を掲げるとき、教会外の笹界は私たちをどう見るでしょうか。

イエスの宣教命令は、キリスト教の歴史において、必ずしも教会の中心的課題ではなく、むしろ長い間、その効力を失っていました。教会にとって、宣教は、派遣され、外に赴いていくことは、他人事になっていったのです。

すでに古代の教会においては、この宣教命令は使徒たちに発せられたものであって、自分たちに課せられたものではなく、すでに使徒たちによって達成されたものであるという理解が一般的でありました。キリスト教が国家の宗教になっていけばなおさらその傾向は強まっていきます。外に出て行くことよりも、自分たちの教会、地域の教会を守ることのほうが重要になってきます。

宗教改革以降のプロテスタント教会においても、宣教への関心は薄く、世界宣教ということが神学や教会の議論のテーブルに載ることはありませんでした。イエスの宣教命令は使徒たちにのみ課せられた特別な役割であり、福音はすでに全世界に伝えられ、神の国はすでにこの世に働いており、世の終わりは切迫していると考えられていました。それならひときわ、他宗教者への宣教に努めるべきではないかと思いますが、キリスト教徒ではない人々と接触はあったものの、ユダヤ人、イスラム教徒、異教徒による福音の拒絶は、自己責任であり、悪魔の仕業であり、人間には理解できない神の計画であると考えられていたのです。

この理解は、宗教改革を経で18世紀の終わりに至るまで、変わることなく教会の中で受け継がれており、ルター派、ならびに多くの改革派の教会の中では、教会が外に出て行き、異教徒をキリスト教徒に改宗するという考えはありませんでした。教会は教派、地域、国によって分断され、閉鎖された宗教であったのです。

この後、世界宣教時代に突入することによって、イエスの宣教命令が復権するのですが、モルトマンが指摘するように(『聖霊の力における教会』)、ヨーロッパの既存教会の中で、キリスト者が世界に派遣されるということを昔話としてとらえる傾向は、今日に至るまで続いています。宣教を自らの課題と考えず、教会はキリスト者の教育に従事し、キリスト者のこどもに洗礼を施すことによって、永続的にキリスト教社会を再生産することに専念するものとなってしまっています。

日本の教会がある一定の安定を見た段階で、宣教をかつての宣教師たちの課題と考え、宣教を終わったもの、もしくはかつての名残として細々と続いていくものとして考え、教育によっていかに教会を再生産するかということに重点が移ってしまったのかもしれません。しかし、この教育もいまや機能しなくなってしまいました。

宣教命令の復権

千何百年にもわたってイエスの重要な言葉として受け止められなかった宣教命令が、18世紀の世界宣教運動において復権することになります。

まず、イエスの宣教命令を取り上げたのが、イギリスのバプテスト教会のインド宣教師となったウィリアム・ケアリです。彼は『異教の人の回心のためのさまざまな方法・手段を用いるべきキリスト者の責務についての問いかけ』(1792年)という小冊子を著し、その中でキリスト者がその責務を遂行する根拠としてマタイ28章を大きく取り上げました。

その第1章の表題は「私たちの主によって弟子たちに与えられた命令は、もはや私たちには拘束力を持っていないのかについての研究」です。ケアリはこれまでのこのテキストの解釈をくつがえして、イエスの宣教命令を弟子たちに限定された命令とはせず、神は異教徒を救おうとされているのであり、それゆえイエスの宣教命令はすべてのキリスト者に語られたものであり、神の業のためにキリスト者は全世界に遣わされていることを主張しています。

18世紀末から20世紀にかけて、イエスの宣教命令は、世界宣教の舞台で宣教師を世界に派遣する大きな原動力となりました。今まさに、イエスが自分たちを世界宣教へと召しだし、そしてその命令を自分たちが達成しようとしているという宣教意識が芽生えてきたのです。

それは単なる信仰的な充実感や達成感にとどまるものではなく、「神の国の建築」に大きく寄与し、神の歴史の中に神の同労者として身を置いているという実感がそこにあったのです。

特に、イエスが統治する千年王国の前にイエスが再臨すると考え、福音宣教によってそのイエスの到来を早めようとしました(二ペトロ3・12「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」)。特にイエスの到来を早めることをキリスト者の果たすべき義務と考えていた千年期前再臨主義者が中心となって、神の国の完成を推進するために、イエスの宣教命令を前面に掲げたのでした。

しかし、教会の中に、全世界に出て行って、他宗教者に宣教し、洗礼を施さなければならないという宣教論に対する反対がなかったわけではありません。当時の宣教師が掲げていた永遠の救いを受け入れなければ滅んでしまうというメッセージに対して、啓蒙主義より生まれた合理主義、世俗主義、ヒューマニズムの精神と結びついたキリスト教の中から他宗教者に対する宣教への批判が高まってきたのでした。

しかし、世界宣教を推進する人々は、この批判に対して、「イエスが命じられたことを、どうして反対することができるだろうか」と」反論しました。イエスの宣教命令は、キリスト教内の反対勢力を黙らせる決定的な、そして切り札的な力を持っていたのです。

いまから150年ほど前、この宣教命令の復権によって、日本にまで(欧米から見るならば地の果てにまで)宣教師が到来し、キリスト教が伝えられ、教会や学校、様々なキリスト教施設が設立されました。

しかしながら、20世紀に入り、一旦復権したイエスの宣教命令は、再びその力を失ってしまうことになります。宣教は、どこか中心点があって、外へと(全世界、地の果てまで)広がっていくものではなくなってしまいます。欧米のキリスト教が弱体化する中で、欧米の教会がもはや福音の唯一の発信地ではなくなり、むしろかつて地の果てと理解されたそれぞれの宣教地が、キリスト教の複数の中心点となり、さまざまなキリスト教理解、福音理解が欧米諸国のキリスト教へと逆流してくるようになりました。また、かつての福音の発信地であった欧米の教会は、もはや宣教の主体ではなくなり、自らを宣教もなければならない宣教の対象へと変わっていったのです。

かつて一つであった宣教も分裂し、多様化し、宣教の中心もなくなり、「地の果て」もなくなってしまったのが、現代の状況です。

現代、この状況の中で、イエスの宣教命令をどのようにとらえるのかが私たちに課せられている課題です。」