2024/12/8 ヨハネの福音書20章30〜31節「いのちを得るための書」待降節第2主日
ヨハネの福音書20章の最後の言葉です。残すところ21章だけ、となりました。ここまで書いてきたヨハネ、最後の一章分を書くばかり。改めて、この福音書を書いた目的を記します[i]。
30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
ヨハネの福音書は、4つの福音書の中でも独特です。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書が共通する記事が多く、「共観福音書」と呼ばれるのと違って、ヨハネだけの独自の記事がたくさんあります。しかしヨハネは言うのです。「ほかにも多くのしるしを行われた」。それがどれだけか、というのはまた21章の最後での言葉に回すとして、マタイ、マルコ、ルカが記したのも、ヨハネが伝えたのも、全部ではないのです。まだまだある。それは、ヨハネがイエスの弟子、イエスに愛された弟子として間近に見て来た記憶です。ですから、愛するイエスとの思い出を語るだけなら、いくらでも話したいこと、記したいことはあったのでしょう。私たちも、大切な人との思い出を伝える機会があれば、話を選ぶのに困るでしょう。次から次に思い出すことが浮かんでしまうかもしれません。ヨハネもそうだったでしょう。
しかし、ヨハネは、イエスとの思い出を懐かしく語りたかったのではありません。一つには、ここでヨハネは「しるし」と言うことばを選んでいます。欄外に「あるいは「証拠としての奇跡」」とあります。この言葉は今までもヨハネに出て来た言葉ですが、ただの奇跡ではなく、証拠としての奇跡――すごい、超自然的な奇蹟でアッと言わせるという以上に、しるしである。その出来事を通して、イエスがどんなお方か、イエスが伝えたいことが何かが私たちに示される証拠となるようなわざ、つまりしるしです。直接ヨハネが「しるし」と呼ぶのは、二つの奇蹟ですが、遠回しには五千人の給食や、ラザロの復活もしるしと呼ばれますし、他にも多くのしるしをイエスはした、とも言われます[ii]。また、特に「弟子たちの前で行われた」しるしといえば、弟子たちの足を洗ったことや、直前の復活のイエスが閉じられた部屋に入ってこられたことや、手と脇腹を示したことも「しるし」です。いわゆる「奇跡」ではなくても、イエスがどんな方かを示すしるし(サイン)でした。そして、ヨハネが書き切れないほど多くある記憶から厳選してこれらの記事を書いたのは、はっきりした目的がありました。
31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
「あなたがた」とは誰でしょう。勿論、私たちも含めたすべての読者であり教会ですが、直接には、ヨハネがこの福音書を宛てて書いた当時の教会です。「信じる」にも欄外注があって「異本「信じ続けるため」」とあります。「信じる」であれば、まだ信じていない人向けで、既に信じている方は「私はもう信じていますから、他のまだ信じていない方にどうぞ」となるかもしれません。「信じ続ける」なら、既に信じた人が信じ続けるため。キリスト者のためにこそ、この福音書は書かれた、ということです。どちらが本来だったのか、五分五分なのですが、いずれにせよ、信じることは一度信じさえすればいいのでなく、信じ続けるものです。
その直近の例として挙げられるのは、前回の、20章24~29節に出て来たトマスでした。トマスはイエスの弟子でした。イエスと共に殉教する覚悟も厭わなかった信奉者でした。しかし、トマスはイエスの十字架も復活も、トマスの理解を超えていました。そのトマスに、復活したイエスが現れ、十字架と槍の傷の残る手と脇腹を見せた時、トマスは「私の主、私の神よ」と告白をしました。既に弟子であったトマスが、更にイエスを信じ続けるよう、立ち上がった。それは、イエスとその手と脇腹の深い傷というしるしを見てでした。伝説によれば、トマスはその後、エルサレムからインドに宣教に行き、そこで殉教したとされます。疑いに閉じ籠っていたトマスが、イエスが出会ってくださったことにより信じ続け、イエスの名によって、弟子たちの中で最も遠い地にまで行き、一粒の麦として自分を捧げる生涯を生きたのです。
それはトマスや直接の弟子達だけでなく、イエスを信じるすべての人にイエスが下さる障害です。でも、ここでヨハネが敢えてこのように書いたのには、この福音書が書かれた時代、1世紀の末頃の教会が、必ずしも信仰によっていのちを得ていたわけではありません。ヨハネがこの福音書の中で繰り返すように、しるしを見ても、表面的な奇蹟を喝采するだけで、そのしるしが示していることを信じない、イエスが神の子キリストであることを信じようとしない、頑固な姿勢が人の中にあります。ですからヨハネはこの福音書を書いて、まだまだイエスの行ったしるしはあるけれど、厳選してこれらを書き、そして、その目的が「おしるし信仰」ではない、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため[信じ続けるため]、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」と言うのです。
キリスト(欄外によれば「すなわち「メシア」」)とは、神が遣わしてくださると約束されていた、救い主であり王である方です。「神の子」とはキリストを指す称号でもありましたが、イエスは実際に、神を父とする特別な御子なる神でした。「神」は、ユダヤの人々にとって、大いなる、恐るべき絶対神でした。その彼らには、イエスが神を父と呼び、メシアを名乗るなど許されざる冒瀆でした。彼らはイエスを何度も殺そうとし、最後には十字架につけました。他方、ヨハネの福音書が書かれた時代、教会はローマ帝国に広まり続けていましたが、そこは多神教世界で、神々と人間の境は曖昧でした。イエスが神の子だという告白に怒ることはありませんが、神が人間を救うために真剣で、神の子が人間となって死に、よみがえったなど、愚かで、笑い飛ばすような存在でした。そのどちらにとっても、ヨハネが語るイエスは、思いがけないことをし、理解を超えたことを語る方です。神が世を愛して、ひとり子を与えた。その御子イエスは、私たちにいのちを与えてくださる。イエスがいのちを与えようとする者は、決して失われることがない。そういうイエスの証しがここにあります。そして、そのしるしをイエスは多く行いました。空っぽの水がめを通して、貧しい結婚式を祝福し[iii]、犬猿の仲であったサマリアの井戸で、心渇いた女性に語りかけ[iv]、生まれつきの障害を「家族の誰かの罪のせいだ」と言われていた人を、神の栄光を現す器として立たせました[v]。作り話であれば、ユダヤ人なら冒涜だと怒り、ローマ人なら下手な冗談だと笑い捨てたろう話が、作り話ではなく、事実であって、イエスが神の子キリストであることを証しし、私たちはこの方が私の主、私の神であると信じて、イエスを信じる関係に入って、いのちを頂けるしるしなのです[vi]。
これが「しるし」であるならば、確かにイエスを信じること(信じ続けること)は、イエスによっていのちを得る生涯です。ヨハネ自身、イエスとともに過ごした時から、この福音書を書くまでの長い人生は、イエスの名によっていのちを頂き続けて来たはずです。心が渇いた時にはサマリアの井戸端の、女性との屈託ない会話を想い、貧しい食事をしながらこどものお弁当を祝福したイエスが浮かんだことでしょう。夜の嵐の海を歩いてきた主、墓の前で涙を流した主、弟子たちの汚れた足を洗った主、そうしたしるしに、いのちを頂いた日々だったと思う。その経験から選び抜いた記事を、ヨハネはここにまとめたのです。だからこそ私たちも、ヨハネの福音書を通して、イエスが神の子キリストであることを信じ続けることが出来るのです。御子を遣わした神の愛、私たちを愛して、必ずいのちを下さるイエスに信頼しています[vii]。今日までの日々も、これからも、信じ続けるだけでなく、いのちを頂く日々を生かされるのです。
「御子イエス・キリストの父なる神。ヨハネによる福音書により、私たちが主イエスを信じ続けることが出来ること、信じてイエスの名によっていのちを得ていることを感謝します。あなたの羊とされ、あなたの枝であることを教えられ、慰めと希望をいただき、愛され、愛する幸に立ち戻らせてきました。主イエスの物語を読むことによって、私たちの物語がその一部であることに気づいてきた。この尊い幸いを、ヨハネの福音書を読むすべての人が与れますように」
[i] このような途中でのまとめは、12章37節や、前の19章35節などでもあったことでした。ここでもヨハネはもう一度、確認をしています。何か、今日の言葉がもう結びとして書かれたのに、21章が続くのは不自然だ、などと言う方もいるのですが、邪推というものでしょう。
[iii] ヨハネの福音書2章1~11節。
[iv] ヨハネの福音書4章。
[v] ヨハネの福音書9~10章。
[vi] 「イエスを信じ続けるため、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」。これは「信じ続ける」と「いのちを得る」と2つの目的があると読むよりも、切り離せない表裏のことです。ヨハネの福音書17章3節:永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
[vii] 信じているのに、いのちを頂いていない、ということはないはずです。もし、それが私たちの努力や信心深さ、奉仕や行いによって、であると言われているなら、だいぶ怪しくなってきますが、ここではそうは言わず「イエスによっていのちを得る」と言われているのです。奇跡的な命の輝きや、神秘体験のような実感ではないのです。