2024/12/22 ルカ2章8〜20節 「栄光が神に、平和が人々に」
イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスが世界で祝われます。今や、世界でのクリスマス商戦の予算は2兆円だそうです。しかし、一番最初のクリスマスは、今日の箇所の通り、そんな大盤振る舞いやご馳走、キラキラして豪勢なイベントとは無関係でした。イエス・キリストのお生まれを祝う招待状を神が送ったのは、野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた羊飼い、当時の社会では底辺で働いていた人々でした。その羊飼いたちのところに、御使いが来ました。
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
クリスマスの絵的には、天使たちがラッパを吹きながら、夜の空を飛び回っている絵が思い浮かぶものではないでしょうか。その元になった今日の箇所は、御使いは空から多くの人にこの知らせを告げたのではなく、郊外でひっそり羊たちと過ごしていた牧者たちにだけ、この「大きな喜び」を告げ知らせたと伝えているのです。でもだからこそ、この大きな喜びが、この民の一部だけ、エリートだけでなく、民の底辺やはみ出し者、数に数えられることもない人々も含めた「この民全体に与えられる、大きな喜び」なのです。それは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」という知らせでした。
この「今日」がいつなのか、正確にはわかりません[i]。一般的に誕生日を祝う習慣というのはずっと後の事で、この頃はまだ、子どもというのは2歳ごろまで無事生きられるか分からず、一年ごとに年を数えていく、というのが世界的なものでした。勿論、王や有力者ら、特別な人々は子どもの誕生を盛大に祝って記念したようです。それを言えば、この時お生まれになったイエスこそ、誕生の日付を覚えるに相応しかったはずですが…。一方、この2章1節には、ルカが
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た」
と書いています。当時の最高権力者と言えるのが皇帝アウグストゥスです。彼の誕生日は、9月23日だそうです。2節のキリニウスの誕生日は分かりません。アウグストゥスは、初代ローマ皇帝で、戦争を終わらせ、「ローマの平和」という時代を築いたと歴史では紹介されます。その別名の一つが「救い主」でした。しかし、それは支配層にとっての平和で、庶民や周辺諸国は大変な搾取と暴力を強いられていました。その一つがこの「全世界の住民登録をせよという勅令」です。ローマの財源となる徴税と兵役のための統計が、住民登録の目的です。そのために、帝国の全民族が自分の町に行き、登録しなければならない。典型的な権力による支配です。そのアウグストゥスが「救い主」と呼ばれ、また「主」とも呼ばれました。そして聖書、特にこのルカの福音書は、こうしたローマ帝国の支配構造を背景として節目節目で伝えながら、その中でイエス・キリストの登場と活動を語っています。歴史を変えるような大きなことをして、誕生日も覚えられるアウグストゥスや有力者たちの陰では、誕生も死も叫び声も記録されない無数の踏みつけられた人々がいました。遠い都ローマから命令一つで、帝国中の民が移動を余儀なくされる、「平和」とは名ばかりの帝国。そこに、キリストは来ました。自分の町に帰る住民登録とは無縁だったのか、野宿していた羊飼いたち――彼らにも「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と告げられました。ローマよりも遥かに遠く、根本的に隔たっているはずの、神の座と、人の地との境を、主イエスは遜って、無防備な赤ん坊として生まれることを厭わずに、来てくださいました。本当にこのイエスこそ「あなたがたのための救い主」「私たちのための救い主」です。「私たちのためにお生まれになった救い主がいる」と言えるとは、私たちはなんととんでもない告白を与えられていることでしょうか。
しかしこれこそ、聖書が語ってやまない、神である主の神らしさ、でもあります。
13すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
二、三行の短い歌ですが、「賛美した」は「賛美しながら」とも訳せますので、しばらく賛美したのでしょうか。ヘンデルのメサイアでは2分近くの合唱曲に膨らまされていますが、実際はどれくらい続いたのでしょう。そもそも歌だったのでしょうか。人間の想像も真似も出来ない、天使の賛美だったのでしょうか。聖書には、天で大勢の御使いが神を賛美する記述が、しばしばあります。イザヤ書6章やエゼキエル書1章、天上の生き物が果てしなく神の栄光を褒め称えています。その栄光をここでも天の軍勢は賛美しています。それは、高く天にいまし、地の悩みや人間の罪には関わらない栄光ではありません。むしろ、地で悲しみ、疲れた人々を天の栄光に与らせて、罪を贖い、平和によって癒す栄光です。御使いたちはここで、御子イエスの誕生にその憐れみの深さを見て、神を褒め称えるのです。それは、時間の長さがどれだけであれ、永遠がこの世界に触れた賛美でした。そしてそれは、芸術家や美の愛好家たちによりも、闇の中で働く、疲れた労働者たちに、この世の歴史では名も残らない人々に、人間社会に王子が生まれたとして招待されるリストに絶対名前がないような人々に、届けられたのです。
これは、単に嬉しい知らせがもう一つ増えた、と言うようなことでしょうか。それよりも、世界そのものの、平和や喜びのあり方をひっくり返す出来事でした。世界や私が何なのか、と言う事自体まで、全く新しくしてしまった、と言っても良いでしょう。ですから「15御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」」御使いたちの言葉はありましたけれど、御使いに命じられたから、ではなく、自分たちのワクワクする意志で、この目で見に行こうと出掛けていくのです。
16そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼い葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。17それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
布に包まって飼葉桶に寝ているキリストを見つけるのに、どれほど時間がかかったでしょう。彼らが見つけた時、彼らにも増して
18聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。19しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
羊飼いたちの話す御使いのこと、待ち望んでいた救い主が生まれて、布に包まれて飼葉桶に寝ていること、それを話しているのが羊飼いたちであること――驚きであり、マリアが心に納めて思いを巡らすような不思議なことだったのです。
御使いは、この出来事を伝えよ、キリストを伝道せよと命じてはいませんでした。ただ、羊飼いたちが、自分たちが知らされたキリストの誕生を知らせずにおれなかったのです。私たちのために救い主が生まれた、私のために神の子イエスがこの世界に生まれた――何と大胆で不思議な告白を、キリスト者は受け継いできたことでしょうか。羊飼いたちはこの知らせによって、自分の体験を語る声を持ちました。「20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」帰った先はまた野宿で夜番もしながら羊の世話を続ける毎日です。決してその生活パターンや仕事が変わったわけではありません。でもその日常に、神を崇め、賛美する新しい彼らとなって、彼らは帰っていきました。救い主が私たちのためにお生まれになった、と告げられること。その大きな力、どんな人をも変えずにはおかない大きな喜びが、語られています。私たちもその一人なのです。
「主キリストの父なる神。御子イエスを贈られた栄光を褒め称えます。卑しいとされた羊飼いたちへの知らせだからこそ、私たちは主の誕生を私のためとして受け止められます。この一年、一人一人の過ごした道程は違い、抱えている思いは千差万別な私たちが、共に今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった、との知らせを聴いています。この知らせによって私たちを包み、慰め、一つとし、共に主を賛美させて、私たちを救い主の印としてください」
[i] 後になって、冬至の祭りに絡めて祝い始められたキリストの降誕祭です。