2024/12/15 ヨハネの福音書21章1〜14節「舟の右側に網を打ちなさい」待降節第3主日
ヨハネの福音書、最後の21章は復活したイエスと弟子たちとが、湖で出会った場面のエピソードを伝えます[i]。20章でエルサレムにいた弟子たちは、ここで少なくとも7人が故郷のガリラヤにいます。復活したイエスと出会い、イエスを神の子キリストと信じた弟子たちですが、ずっとイエスと一緒にいた訳ではなさそうで、弟子たちもガリラヤに帰っていたのでしょうか。漁に行ったけれど
「その夜は何も捕れなかった」
というのも、プロの漁師ですらままある日常的な体験だったはず[ii]。そんな日常的な場面、働き、徒労、何気ない所にイエスは現れます。
4夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
勿論、イエスの言葉を普遍化して、いつでも右側に網を打てば大漁が約束されているわけではありません。これは、この時、イエスがこの弟子たちに言った言葉です。イエスは私たちにはその時その時に、新しいやり方を備えるお方です。それも弟子たちが、イエスが現れるとは思ってもいない時、日常の生活をし、慣れ親しんだ仕事をして、それでも思うようにいかず、何も収穫がなく、こんなものだと思っていた場に現れたように。そこに現れたイエスの姿を見ても、イエスの声や言葉を聞いても、イエスだとは分からないような場、タイミングで、そこに立ち、人の思いを超えたやり方を教えられる。その時、弟子たちはイエスだと気づくのです。
7それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
イエスが愛した弟子、ヨハネが「主だ」と気づきます。彼らがイエスと出会った最初の頃に似たような大漁の経験をしていたことは、ルカの福音書5章に書かれてあります[iii]。その出来事を思い出したのかもしれません。ヨハネは主だと思わず叫ぶ。それを聞いたペテロは、急いでイエスの所に行きたい気持ちと、裸に近いままなのはマズいという思いの板挟みでか、上着をまとって、湖に飛び込む、というちぐはぐな行動を取るのでした。全員がそんな行動をしたらせっかくの魚も舟も、失うことになりますが、それはペテロ一人でした。
8一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほど[欄外・90m]の距離だったからである。9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
なんだ、イエスはもう朝食を準備してたんじゃないか、と思ったでしょうか。すると、
10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
彼らが捕った魚も、一緒に食べようと言われるのです。バーベキューの始まりです!
イエスはその活躍の間、婚礼に最初のしるしを現し、譬えでも、神の国を宴会で思い描かせました。何千人とパンと魚の弁当を分け合い、パリサイ人との会食に連なりました。十字架前、最後の晩も、過越祭の食事でした。そして、復活の後も食事が多いのです。エマオの宿でパンを裂き、12弟子の前で焼いた魚を一切れペロリと食べて生きていることを証しし[iv]、使徒1章4節も「一緒にいるとき」も「食事を共にしているとき」が別訳です。使徒10章41節でペテロは「私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。」と食べたり飲んだりを、復活の証言としています。復活の主は、一緒に飲み食いをする主でした[v]。一つには復活が幻や「霊体」のようなものではなく、触れる体をもっての復活であり、私たちも体のよみがえりをそこに約束されている、という意味もあります。そしてそれ以上に、イエスが弟子たちと共に、一緒に食べたり飲んだりしたことは、私たちにとってのイエスというお方を物語っています。イエスは私たちを食事に招き、養い、もてなされる方です。
11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
上着を着て水に飛び込んだペテロは、少しは先に着いたのでしょうが、何をした訳でもなく、ウロウロと舟に戻って、網を引き上げます。このペテロの沈黙は、彼の心の蟠(わだかま)りが15節以下で光を当てられていく伏線なのでしょう。その何も言えないペテロを、イエスは責めたり問い詰めたりお説教するでなく、この惜しみない大漁をプレゼントしてくださいました。この魚、30〜40cmにもなるマトゥダイと考えられていますが、それが153匹も、と想像してください。それでも網が破れていなかった…。これは大漁にも優って驚きの、印象的な光景でした。
12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
朝食の用意をし、執事のように配膳をしてくれました。弟子たちは、もう主であると分かって、それを尋ねることはしなかったのですが、何も喋らず黙々と食べたのか、それとも前のように賑やかに話しながらだったのか…。どうであれ、イエスは彼らと食事を楽しみ、惜しみなく用意し、また彼らの今取った魚をも一緒に食べたいと願ったし、彼らにパンを取って配り、魚もどうやってか、取って配った…そんな様子を想像すると、本当にイエスは弟子を愛し、私たちを受け入れ、また私たちのすることをも受け入れてくださいます。このイエスの惜しみなく、具体的な愛を素通りして、153匹という数はどんな意味か、イエスが用意していた魚やパンは奇跡によるのか、人間も自分の収穫を持っていくべきだなどと味気ないことを話すのは、つまらないことでしょう。それよりもここでは、思いもしない場にイエスはいて、この朝からのバーベキュー大会をしてくださった。引き上げられないほどの大漁を漁らせ、かつそれでも網が破れない体験をさせてくださった。炭火を起こし、パンと魚を手ずから渡してくれる…。その暖かさ、意味とか奇跡とか使命など霞むほどの深い愛を、共に受け取るのです。
弟子たちは、この後の伝道者人生という海で、網が破れそうなほどの回心者を与えられることもあったでしょう。その逆に誰も信じない、空っぽの網を引き上げるだけの思いをする時もあったでしょう。私たちが信仰と祈りをもって働く場でしばしば経験する通りです。そんな時、まさかイエスがいるとは思わないところで、イエスが立っていたことを知る。そして、思わぬ、無駄なほどに溢れる恵みを、もったいないとも思わずに注がれる思いをする。そんな準備など出来ておらず、へんちくりんな対応をしてしまうような私たちに。責めたり、恥をかかせたり、教訓を垂れたりせず、ただ座らせ、食べさせてくださる。その上で、本当に聞く価値のある言葉、愛することについての言葉を、次回15節以下で語られるのを、私たちは聞くのです。
パンを与えるイエスに、私たちは聖餐式を思い起こします。また、クリスマス祝会も重なるでしょう。用意されている食事があり、私たちが差し出せるものがあれば、それをも持ってきなさいと言われる――嬉しいではありませんか。教会で会食が嬉しいのは、それがイエスと弟子との関係だからです。そこに復活のイエスがおられるからです。そして、私たちが教会から出ていったどの場所でも、イエスはそこにいて、私たちをもてなしてくださるからです。福音とは、イエスが私たちといつも共におり、座って食べなさい、と言われることだからです。やがて、私たちも復活の体を与えられて、共にイエスの食卓に着く時が約束されているからです。
「主よ、よみがえって今も生きたもうあなたはどこでも私たちと共にいてくださいます。旅に迷い、疲れ、虚しい朝、そこにもあなたはいます。私たちが気づかなくても、あなたがいて、もてなし、招いてくださいます。私たちに準備が出来ていない時、しどろもどろになる私たちをも、受け入れ、あなたは人である私たちを愛したもう。どうかその愛に気いて驚き「主です」と喜びの声をあげさせてください。思いがけないところに立つ主を指さす教会としてください」
[i] この部分はヨハネの福音書の締め括りです。20章で終わったような印象を受けて、後から21章は書き足したのではないかと考える人も少なくないのですが、20章で終わる写本というのはありませんから、憶測の話をするよりも、21章まで含めたのがこの福音書だと考えるが最善でしょう。そして、この部分の、何気ないような記述こそ、復活がどういうものだったのか、私たちにとってイエスがどんな方かが、静かに、豊かに、現されています。
[ii] ペテロが「私は漁に行く」と言ったのは、弟子の務めを捨てて、漁師に戻ろうとしたわけではなく、まだイエスが天に昇って聖霊を送る前、新しい働きを待つまでの間、出来ること、慣れ親しんだ漁をして、食べるなり稼ぐなりしようとしたのは自然なことでしょう。
[iii] ルカの福音書5章1~11節:さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、2岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。4話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」5すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」6そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。7そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」9彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。10シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」11彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。
[iv] ルカの福音書24章30、41~43節。
[v] 復活の栄光の体だから、食べたり飲んだりしなくてもいいんじゃないか、なんてのは、人間の生真面目な詰まらない空論です。