2024/1/21 ヨハネの福音書13章21~30節「時は夜であった」
イエスが弟子たちの足を奴隷のように洗って愛を現されたのが13章の始まりでした。それはただの謙遜とか立派な奉仕という以上のことで、偉いとか支配、上下の価値観を引っ繰り返し、私たちを新しくすることでした。イエスは弟子たちの反抗心や誤解も承知の上で、彼らのために身を低くして足を洗いました。その時イエスの心は堪らなく騒いだ、というのです。
21イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
「裏切る」は*マークがあり、欄外に「引き渡します」とあります。これは「引き渡し」の行為であって、「裏切り」という狡さ・酷さへの非難はありません[i]。「引き渡し」を、足を洗うほど愛する弟子の一人がしようとしている。そのことにイエスは激しく心が騒ぎます。それは弟子の一人一人を愛するからこそ、その一人が自分を引き渡すことに激しい感情を抱かずにおれなかったのです。しかしこの言葉を聞いて弟子たちは「それは誰のことか」と当惑します。
22弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。23弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。
前に話した通り、当時の生活に「テーブルとイス」の文化はなく、低い食卓の周りに左肘をついて横になり「寝椅子」という背凭(もた)れに寄りかかり右手で料理を食べたのです。その右隣に横になった人の頭は胸の辺りに来る。それがイエスの「胸のところで横になっていた」光景です。この人は「イエスが愛しておられた弟子」と呼ばれます。この言い方でこの後も四回登場します[ii]。これは恐らく十二弟子の一人、この福音書の著者ヨハネです[iii]。勿論、自分が一番愛されたと自慢したいのではないでしょう。他の弟子と比べてどうこうでなく、振り返って自分の事を「イエスが愛してくださった」と心から思って、自分をこの福音書に登場させています。
弟子の一人がイエスを売り渡した、というイエスの言葉に、弟子たちはそれは誰かと顔を見合わせます。一番弟子のペテロも
24そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。
そしてヨハネも他の弟子と同様、イエスの穏やかならぬ悲しみに心中を察することもなく、イエスに質問します。
25その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか」。
けれどもイエスは、はぐらかすような行動をします。
26イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。27ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」
ここだけを読むと、イエスがパンを渡したからユダにサタンが入ったとか、ユダが操り人形のように思えるかもしれません。けれども今までのイエスの言葉、6章70節や12章4節で、ユダの中で間違いが始まっていたことは知らされていました。それはイエスのせいではなく、彼が自分で選んできた選択の結果でもあるのです[iv]。いずれにせよ、イエスとユダのやり取りは弟子たちの目には分かりませんでした。このこと――イエスは弟子たちに、ユダのことを知らせようとはしなかった――ということこそ、思い巡らしたいイエスの深い心でしょう。
28席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。29ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。
弟子たちは鈍感で呑気だともいえます。しかし実はそれこそイエスの配慮でしょう。イエスは弟子たちに「ユダが裏切り者だ」と気づいてほしかったのですか[v]。もし弟子がユダの企みに気づいたら、彼らはユダを袋叩きにしたでしょう。それがイエスの願いだったのでしょうか。そうでなくとも「誰が裏切り者か」と弟子の間に疑心暗鬼を煽りたかったのでしょうか。そうではなかったのです。イエスは弟子たちが気づかない方法でユダに迫り、ユダに語った言葉は弟子には意味不明でした。そして、弟子たちの誰もユダを疑わず、売り渡す者の嘆きを真剣に受け止めない中、
30ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
この後ユダは、18章2節5節に兵士たちを連れて現れるのを最後にもう登場しません。ヨハネはユダが裏切った後悔にかられたことや、最期の悲惨な死には触れません[vi]。ユダ個人の呪いとかその裏切りの理由とか人物評に興味を持たせようとはしないのです。そこに囚われるなら、そもそもイエスが「心が騒いだ」こと、弟子の一人に引き渡される悲しみと、その弟子をもなお愛した計り知れない思いは、私たちの他人事な好奇心にかき消されてしまいます。
確かに、イエスはご自分の十字架の死を、自分が遣わされた目的として受け止めていました(12章27、28節)。しかしそれも、穏やかにではなく、心が激しく騒ぎつつでした。同じようにイエスが十字架にかかるため、ユダがイエスを引き渡すことにも神の御計画の一環だとも言えます。同時にそれは、ユダの選択、引いては堕落して以来、人間が陥っている罪――永遠のいのちである、信じること、愛すること、仕えることとは真逆の、裏切り、疑い、争って、死への道を選んでしまう罪の、最たる現れでもあります。またそこには「サタン」という、悪意の存在も関わります。神の計画と、人間の選択、罪の問題、サタンの働き…そうしたいくつもの要素が複雑に絡み合っています。それを単純に、「神様の御計画だ、御心だ」とか「あの人の罪の結果だ」とか「悪魔のせいだ」などと言って、説明できたように片付けるのは、どれも間違いですし、イエスがここで見せている、愛ゆえの悲しみからかけ離れています。イエスは、人間を愛し、その人間の愚かさや罪も、サタンの働きもひっくるめた世界で生きることの複雑さ、葛藤を味わい知っています。そして、それでも私たちを愛し、私たちを救うために、ご自身の心だけでなく、からだもいのちも十字架で引き裂かれることを選んでくださったのです。その愛によって私たちは愛されています。その愛がここにあります。
「イエスが愛した弟子」としてヨハネ自身が最初に登場したのは他ならぬここです。21章20節で最後に
「イエスが愛された弟子」
という時も、
この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である
と言います[vii]。裏切られるイエスの思いを知らずに、あんな質問をした。引き渡されるという、説明しがたい悲しみを味わい知っておられる主の愛に鈍感に、主に寄りかかっていた。その主の深い愛に私も愛され、その主の胸に寄りかからせていただいていた自分は、なんと幸いだったことか、と言うようです。だからこの個所を読む時、イエスの愛から離れずに読むことが大事なのです。
時は夜であった。
実際の時間が夜だった、というだけでなく、象徴的でもあります。イエスはご自分を「世の光」と言い、「夜が来ないうちに」と言っていました。その言葉が悉く撥ね付けられた結果、この夜のようです。しかしここでこそイエスは続けていいます。
31ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。『今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。…
そして34節の
「互いに愛し合いなさい」
の新しい戒めを与えるのです。夜が来る。神の御心とも人のせい、サタンの働き、自分の鈍感のせい…とも単純に言えない、心が真っ暗になりそうな思いをする。でも、そこでも私たちを愛し、私たち以上に嘆き、その夜を通してさえ、不思議に栄光を現してくださる神がおられる[viii]。そして、そこでも私たちが、自分や人の危うさ、罪を見据えた上で、疑心暗鬼や犯人捜しにならず、互いに愛し合うことを求める。そういうあり方をイエスはヨハネにも、私たちにも与えられるのです。
「世の光である主よ、説明の出来ない出来事や事故、自然や人間関係の災いが世界を覆う闇のように思えても、そこでこそ静まり、ともに呻き給うあなたに導かれ、助け合い、いのちを示し合っていくことが出来ますように。この世界には私たちには分からない大きなことがあり、あなたは私たちの予想を超えた愛で、すべてに働かれる方です。疑心暗鬼や愚かな言葉から救い出し、「イエスが愛しておられた弟子」として、灯火を灯し続ける生活をさせてください」
[i] ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』より:「今日の社会では、自分自身のあり方を自分で決断できない範囲がますます増えているように思えます。ですから、私たちのあり方の大部分が、待つことに深く関係しているという認識が、ますます重要になってきます。イエスの生涯を見ても、自分で操作しないことが、人間である条件の一部であることを物語っています。イエスの使命は行動においてだけでなく、受難のうちに、すなわち待つことにおいても成就しました。」112頁
「十二人のうちの一人の裏切り…神はイエスを引き渡された イエスは、弟子たちと一緒に食卓の周りに座り、こう言われました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(ヨハネ13・22)。私は今日、福音書のこの箇所を読みました。 ギリシャ語で書かれた、このイエスの言葉を読めば読むほど、「あなたがたの一人が、わたしを引き渡そうとしている」と訳したほうがよいように思えます。ギリシャ語のパラディドミ(paradidomi)という単語は、「差し出す、引き渡す」という意味で、これは、ユダがしたことだけでなく、神のなさったことも表す重要な用語です。「御子をさえ惜しまず死に渡された」(ローマ8・四)とパウロは書いています。 ユダについて使用しているように、その行為を「裏切る」とだけ訳すのであれば、ユダもまた神の業をなす道具として用いられた奥義を完全には表せません。それこそ、イエスなぜこう言われたかを示すものです。「人の子は、聖書に書いてあるとおり、去っていく。だが、人の子を裏切る[引き渡す]者を、気の毒に思う」(マタイ26・24英訳)。イエスを何とかしたいと待ち構えていた人々に引き渡された瞬間は、イエスの働きの転換点です。それは、活動から受難への転換です。人々に教え、説教し、いやし、どこであろうと行きたいところに出かけた何年かを経て、今やイエスは、敵の思うがままの身となりました。物事はもはや自分がするものではなく、他人が自分にするものになりました。イエスは鞭打たれ、茨の冠をかぶらされ、唾をかけられ、あざけられ、裸のまま十字架に釘づけされました。イエスはこのとき、受けるだけの犠牲者となり、他の人々のなすがままになりました。引き渡された瞬間から受難が始まり、その受難を通して、イエスの召命はまっとうされました。 イエスがご自分の使命を、自分がなしたことによってではなく、自分になされたことによって成就なさったことに気づくことは、私にとって重要です。他の誰もがそうであるように、私の人生のほとんどは、自分になされたことによって決定づけられました。それは受難です。そしてほとんどの生活は受雕、つまり、ものごとが自分に対してなされるので、私が何を考え、何を言い、何をするかで決定できることは、わずかしかありません。私はこれに抵抗し、すべての行動が自分に端を発するものにしたいと願います。しかし私の人生は、自分のとる行動よりはるかに大きな部分を受難が占めているのが真実です。この事実を認めないことは、自分を敷くことであり、愛をもってそれを迎え入れないのは、自分を拒否することです。 イエスが受難へと引き渡され、それを通して神から託された地上の務めが果たされたという知らせは、良いニュースです。全体性の回復を一心に探求している世界にとって、良い知らせです。 イエスがペテロに語った言葉で想起されるのは、もし私たちがイエスの生き方に従いたいなら、行動から受難への移行が必要になる、ということです。イエスはこう言われました。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ22・18)。 私もまた、自分が「引き渡される」ことに任せねばなりません。そうしてこそ、私の招命がまっとうされるからです。」112~114頁
[ii] ヨハネの福音書19章26節(イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。)、20章2節(それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」)、21章7節(それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。)、20節(ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。)。
[iii] 諸説あるものの、最後の晩餐に同席した十二弟子の一人で、この福音書を書いたヨハネ自身、というのが昔から今まで最も筋が通ります。
[iv] ユダだけは、裏切り者の存在を仄めかされた時、ドキッとしたはずです。パンを差し出された時、それを拒む選択もできたのではないでしょうか。それを何食わぬ顔で受け取った時、ユダは、自分の偽善・欺瞞を選択したのではないでしょうか。
[v] それなら名指しでユダだと言えば良かったでしょう。「パン切れを浸して与えた者がその人です」と言って、浸したパン切れをユダに与えはしますが、これは18節で「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとをあげます」(同じ釜の飯を食った仲間が裏切る)と言ったのを見せたまでです。
[vi] マタイの福音書27章や使徒の働き1章には、ユダの最期が自死、あるいは転落死として描かれます。
[vii] ヨハネの福音書21章20節:「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である」と今日の13章でのことに触れることにも表れています。
[viii] 1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
5:35 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。
8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
12:35 そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
12:36 自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。
12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。