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2024/11/3 ヨハネの福音書20章1〜10節「よみがえらなければならない」

20章、イエスの復活を語る、福音書のクライマックスに入りますが、ヨハネはこう書きます。

さて、週の初めの日朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」

「私たちには」というように、他の福音書では、マグダラのマリアの他に複数の女性がいたことが伝えられています[i]。ヨハネはマグダラのマリア一人に集中して、この後に繋げます。マグラダのマリアはルカの8章2節で

「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア」

と短く紹介される女性です[ii]。ひどい苦しみをから救い出された、目立つこともなくイエスに仕えて来た人です。そしてこの日曜の朝、まだ暗いうちに、墓にやってきました。

男たちは動こうとしない中、女性だけで暗いうちに行動することは危険で、墓に行っても石で蓋をされて何も出来ないかもしれないのに、彼女たちは墓に行ったのです。でも、その思い余って、復活という幻想になったのではありません。石の蓋が動いて墓が開いているのを見たマリアは、走り出して「だれかが墓から主を盗って行きました」と結論したのです。復活したんだわと喜んだり、生き返ったのかもと思ったりはしません。

 3そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

このもう一人は、福音書記者ヨハネ自身でしょう。ペテロとヨハネは、よく組になって登場します[iii]。この時、ヨハネの方が速かったのはなぜかわかりませんが[iv]、その後も、ヨハネとペテロの微妙な違いが出て来ますね。ヨハネは先に墓に着いたので、

 5そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。

アリマタヤのヨセフの裕福な墓で、低い入り口の奥に、イエスの体を包んでいた亜麻布だけが見えました。でも、中には入らなかった。そこに遅れて、息を切らしてペテロも到着します。

 6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

ペテロは中に入る。走ってきた勢いで止まれなかったのか、いや、中に入らずにはおれなかったのでしょう。そして、外から覗き込むだけでは分からなかった、暗い中の様子を見ます。

 7イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。

19章39~40節で、百リトラ(30㎏)もの香料がイエスの体と一緒に包まれたというのですから、包んだ亜麻布はベットリしていたとも言われます。その亜麻布が、そこに置いてある。また、頭の部分の布が「丸めて」とは、クシャクシャに丸めて、ということではないのですが、頭に相当する分量の亜麻布がきれいに畳んで置かれていた、ということか、あるいは、頭をクルクルと包んでいたのが真ん中だけスポッと無くなったように、ただ丸まったまま、ということか、二つの意見があるのですが、どちらにしても、別にあった。これは、誰かが墓からイエスの体を盗んだのであれば、こんな丁寧な置き方はしないでしょう。亜麻布ごと持っていくか、剝いだなら散らかして体だけ持って行ったでしょう。ですから、これは墓泥棒の仕業ではない。

 8そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。

この「信じた」はヨハネが、イエスの復活を信じ、イエスがメシア、救い主だと信じたこと、新しい関係に入ったということです。この福音書でヨハネは「信じる」という言葉をとても大切な言葉として使ってきました。この20章31節では、この福音書を書いた目的が

イエスが神の子キリストであることを、あなたがた信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

と言うのです。そして、それを言うヨハネ自身が信じたのが、この墓の中に入った時、イエスの体が無く、亜麻布だけがそこにあるのを見た時だったのです。

しかしその後にこう続きます。

彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

亜麻布だけの墓を見て、復活を知り、イエスを信じた。そこには、聖書がイエスが死人の中からよみがえることの必然が理解されていなかったのです。そして、この「見て、信じる」の不十分さは、この20章の29節でハッキリ言われます。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

確かにイエスの復活は事実です。もし復活が弟子たちのでっち上げだったら、マグダラのマリアたちを最初の証人にしたりはしなかったでしょう。当時、女性は証言能力がないとされていましたから。また、誰かが盗んだとは最初の勘違いでしたが、見張りの番兵がいたので無理なことです。あるいは「息を吹き返して蘇生した」というのも、釘で打たれ槍で刺された体で、亜麻布を自分で解いて出歩けはしません。更に、弟子たちの心の中にイエスが生き続けた、という復活ではなく、今日の箇所も明らかに、イエスが体で復活し、墓には亜麻布だけが残されていたと伝えています。イエスは事実、本当に十字架に死に、本当に復活したのです。

しかしそれが歴史に起こった事実だと信じるだけなら、「だけどそれは二千年も前のことで、どうだっていいじゃないか」で済まされるでしょう。信じたけれど聖書を理解していないので、

10それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。

先に墓に到着したのはヨハネで、先に中に入ったのはペテロで、後から中に入ったヨハネが信じて…。一緒に帰る二人の体験は違います。後から戻ってきたのでしょう、マリアはまだ信じていませんし、墓に入ることもありません。三人三様で、信じるに至るプロセス、イエスとの出会い方は違うのです[v]。速く走った方がいいとか、墓に到着しても入らないと駄目だとか、そんなこじつけはしなくてよい。肝心なのは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないと聖書が言っている、その聖書をヨハネもペテロもマリアも理解していったという事です。この「聖書」は欄外注にいくつもの箇所が挙げられていますが[vi]、もっと大きく聖書全体がイエスの復活を語っている、と読んだら良いでしょう。聖書は、神のいのちを、謙りと栄光、憐みと勝利のパターンを、繰り返し語っています。私たちに対する神の御業は、神ご自身の深い恵みの謙りを通して、必ず成就します。イエスは私たちのため、いのちを捧げて死に、三日目に死人の中からよみがえりました。私たちは使徒信条で「主は…十字架につけられ、死にて、葬られ、三日目によみがえり」と告白しています。それは、ただ二千年前に、不思議にも本当に、十字架に死んだキリストが三日目に復活した、と信じる以上に、イエスは必ずよみがえる、そこに聖書のエッセンスがある。私たちにとっての希望、拠り所がある、ということです。

ペテロもヨハネもマリアもまだそれを知りません。愛するイエスを求めて走る三人ですが、まだ復活の事実を三者三様に受け止め始めたばかり。それを象徴する今日の書き出し、

朝早くまだ暗いうちに

という言葉です[vii]。しかしその暗い朝、主は先立ってよみがえられました。人間の理解の暗さの中、イエスは先に復活されました。私たちが悲しみを抱え、予想外の出来事に戸惑い、誤解や早合点をし、罪と自責の念で足取りが重いような時、私たちのためによみがえった主は先立って、一人一人、二つとないいのちへの道を用意しています。そのためにイエスが、ご自身が死ぬべきひとりの人間となり、十字架にかかり、私たちのためによみがえったからです。この復活のイエスを私たちは信じる。ただ昔の出来事、イエスだけの特別なこととして、私たちのため

イエスは死人の中からよみがえらなければならないという聖書を

という力強い言葉とともに、復活したイエスを信じる信仰を確かめます。

「私たちの主イエス・キリストの父よ。御子の十字架と復活を感謝します。本当に主が死人の中からよみがえられた、いや、よみがえらなければならなかった、という聖書。この言葉の動かない力強さに、希望を、勇気を頂きます。ともすると、復活を習慣的な告白にしてしまいがちな私たちです。繰り返して復活の大いなる奇蹟に立ち返らせてください。一人一人、与えられ、道びかれる中、まだ暗い中でも、小さな光を灯し、よみがえりの主を褒め歌えますように」

[i] マタイの福音書28・1(さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。)、マルコの福音書16・1(さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。)、ルカの福音書24・10(それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、)。参考、マルコの異読16:9 〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。〕。

[ii] ルカの福音書8・2:また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、

[iii] マタイの福音書17・1(それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。)(マルコの福音書5・37、ルカの福音書9・28も同様)、マルコの福音書13・3(イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。)、14・33(そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、)、ルカの福音書8・51(イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。)、22・8(イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。)、使徒の働き3・1~4章(ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。)、8・14(エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。)、ガラテヤ人への手紙2・9(そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。それは、私たちが異邦人のところに行き、彼らが割礼を受けている人々のところに行くためでした。)

[iv] ペテロが少し年配でヨハネが若かったからだろうとか、ペテロはイエスを三度裏切った後悔がまだ生々しく気後れして足が遅くなったのだろうとか、ヨハネは近道を行ったのだ、等々と邪推されるところですが、邪推は邪推です。

[v] 「この章では、イエスに対するさまざまな反応をまとめ、人々が復活を信じるようになるさまざまな方法を示しています。愛弟子はイエスの埋葬衣を見て信じます(20:1-10)。マリアはイエスが名前を呼ぶと信じます(20:11-18)。弟子たちはイエスを見て信じます(20:19-23)。より懐疑的なトマスは、調べるよう求められて信じます(20:24-29)。そして最後に、福音書は見ずに信じる人々を最も高く称賛します(20:29)。」、Keener

[vi] ヨハネの福音書で直接復活に言及しているのは2章19〜22節ぐらい? 聖書全体で言えば、詩篇16・10、イザヤ53・10〜12、ホセア6・2、ヨナ1・17、詩篇110・1、4、118・22〜24なども挙げられます。

[vii] 「マルコ福音書では復活の朝、女性たちが墓に来たのは「早朝、日の出の頃」と記されていますが(マルコ16:2)、ヨハネは「まだ暗いうちに」マリアが墓に来たといいます(ヨハネ20:1)。ヨハネはユダがイエスを裏切って出ていった時も「夜」であったと記しています(ヨハネ13:30)が、ここでも象徴的な意味が込められているように思います。イエスの復活は日曜日の朝、まだ暗いうちに起こりました。世界はまだ闇に覆われています。マリアはまだ悲しみに暮れて泣いています。けれどもその瞬間にも、光の差さない穴蔵のような墓の中では神の物語――それはレイチェルの物語でもあり、ミホさんの物語でもあり、私たち一人ひとりの物語でもあります――はひそやかに進行しており、最後の言葉を握っているのは死ではないことが告げられます」、ブログ「鏡を通して」 二人の女性の物語。また、まだ暗いうちに(ナディア・ボルツ=ウェバー説教)も参照。