2024/11/24 ヨハネの福音書20章19〜23節「平安があなたがたに、平安が」
その日、すなわち週の初めの日
すなわち、復活した主イエスを見ましたとマリアが伝えたその日の
夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。
弟子たちは閉じ籠っていました[i]。イエスの次に、自分たちに何かするんじゃないか、復活の知らせを喜ぶより、それを知った当局がここに来るかもしれない。そんな先回りした恐れから、彼らは閉じ籠っていました。その閉めた戸を意に介さず、イエスが入ってきました。
すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」」
恐れて戸を固く閉めていた部屋も、イエスを締め出すことは出来ませんでした。イエスは、彼らの恐れよりも強く、入って来て、弟子たちに会ってくださるのです。
閉めていた戸を開けたか、扉は閉じたまま通り抜けたか、それとも突然、中に立ったのか? どれを取るにしても、ここにイエスが来たのは奇跡的なこと、科学では説明できないことです。そもそも復活こそが説明を超えたことですから、閉じた扉から入って来ることも不可能ではないでしょう。大事なのはその不思議な、新しい体のイエスが、他でもなく弟子たちの所に来たことです。その真ん中に立ち、
「平安があなたがたに」
と言うのです[ii]。
「平安」とは以前14章27節で話したように[iii]、単なる心の平安以上の、完全な平和、繁栄、健康、完全さを指します。今でもイスラエルに行けば「シャローム」という挨拶で朝昼夜、どの場面でも通じるのです。そのシャロームがここで「平安が」と訳されています。聖書には、神が将来、世界に平和(シャローム)を完成するという希望が約束されています。イエスは挨拶で「平安」と言った以上に、本当に「シャロームが」と宣言したのです。「ありますように」は日本語らしくするための補足ですが、「ありますように」と願望のニュアンスで弱めているかもしれません。「シャロームがあなたがたに」なのです。社交辞令ではなく、確かな宣言なのです。
そんな約束を宣言される前に、他にも言って良い言葉があったのではありませんか。「信仰が弱いおまえたちだ」とか「命も捨てるとか自惚れたのは誰だ」とか「マリアに伝言したのに、また信じなかったのか」とか…。でも、そんな非難やお叱りや断罪ではなかったのですね。「何か言うことがあるんじゃないか」などと言われたら、首をすくめて、ユダヤ人を恐れる以上に委縮するしかなかったでしょう。でもイエスはまず「平安があなたがたに」と言いました。平安を受けるに相応しくない、と思うしかない者たちに、だからこそ平安を告げる方、そのために来てくださる方です。ある説教者が言う通りです。
弟子たちは戸に鍵をかけて閉ざしておりました。しかし、主イエスはその戸を抜けて弟子たちの中に来られて真ん中にお立ちになりました。神が人間のところに来てくださる時、いつもそうしているように。[iv]
そして、
20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスの手は十字架の釘の跡が、脇腹は絶命後に槍で刺された跡がありました[v]。それは紛れもなくイエスであることの傷跡であり、そして死んだ事実と、紛れもなく復活した証拠です。死や暴力に、勝利したしるしです。痛々しいようで、それで弟子たちはイエスを見、喜んだ、というのですから、痛々しさや申し訳なさを引き起こすよりももっと深い、イエスの恵みを引き起こすものが、その手と脇にあったのでしょう。同じように、イエスはこの、欠けだらけの弟子たちを、ご自身の働きを受け継いで届けていく遣い、使者とされます。
21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
もう一度、平安を告げて、イエスは弟子たちを派遣するのです。それも、父なる神がイエスを遣わしたようにわたしもあなたがたを、と。「遣わす」と二回訳されている言葉は、実は異なる動詞二つです。イエスの派遣と弟子たちの派遣とは、当然、全く同じではない。けれども二つは「ように」で結ばれるのですから、全く違うのでもない。そして、復活したイエスが与える平安とは、弟子たち・私たちを安全な壁のように守って、内々に籠らせるものではなく、その平安を携えて、外に出て行かせるもの、送り出して派遣する、内なるシャロームなのです。しかしそれだけではなく、イエスは更に言われます。
22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。
弟子たちに息を吹きかけたというのです。この言葉は新約聖書ではここにしか出て来ません。しかし、旧約聖書の創世記2章17節を思い出させます[vi]。神が人を造られた時
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった
とあるのです。神が最初の創造で、人に息を吹きかけたように、イエスは新たな創造で、弟子たちに息を吹き込む[vii]。そのイエスの息そのものに、特別に神秘的な力があったのではないでしょう。でも様子を思い浮かべてみてください。イエスがあなたにふーっと息を吹きかける。あなたは風を感じて擽(くすぐ)ったくなる。そうして聞くのです。
「聖霊を受けなさい」
とイエスが言うのを。
イエスが、栄光を受けた後、聖霊を送ることは14章や16章で既に言われていました[viii]。十字架の栄光を受けたイエスは、弟子たちに約束の聖霊を送ります。それは、戸を固く閉ざして息を潜めていた弟子たちに、イエスがふぅーっと息を吹きかけるジェスチャー付きで、示された、それ自体、弟子たちが息を取り戻したような場面であったはずです。
32節の言葉はこれだけを取り出して、議論されることがあります。弟子や教会に、罪を赦す権威があるのか、いやそんな権威はないけれど、罪の悔い改めの説教の大事さが言われるのだ、とも論じられます。しかしそれ以前に、イエスが死から復活し、墓を空にし、私たちが閉ざしている戸にも遮られることなく、私たちの所に来てくださって、平安があなたがたにと言って下さった、もったいない限りの恵みへの驚きがあるのです。罪や裏切り、不信仰を責められるのでなく、平安を告げてくださいます。それも一度ならず二度も
「平安があなたがたに」
と入念です。この平安(シャローム)の要素の一つは、すべての負債の免除ということです。問題・貸し借り・借金はすべて清算済みなのです。だから心からの平安を持って良いのです。そんな恵みに与った者として、イエスは私たちをご自身の派遣の延長として遣わす、というのです。
それならば、どうして私たちが誰かの罪を赦さずに残せるでしょうか。ひと時の腹立ち紛れに「赦してやるもんか」と思うことが、永遠の重みを持ちかねないのであれば、どうして罪を残せるでしょうか。裁きや憎しみのまま、聖霊による息吹も忘れて、罪を赦さない権威を論じるなど、こことはかけ離れています。復讐ではなくシャロームを選ぶ者、聖霊によって派遣される畏れ多さを知る者、何より私の所に来てくださったイエスを見て喜ぶ者でなければ、誰かの罪を赦さずに残すことも、それを赦すことさえも、語ることは出来ないのです。
ヨハネの福音書が書かれた時代、教会は厳しい迫害の中にありました。過剰反応でなく、実際に戸を閉めて、息を潜めながら集まらなければならない状況もあったでしょう。そんな中で、今日の言葉が読まれた時、ここにもイエスは来て、
「平安があなたがたに」
と言ってくださる。何度でも言ってくださる。冷たい叱咤激励ではなく、ご自分の傷を見せ、私たちの痛み(実際、拷問や乱暴を受けて、傷や障害を負った信徒もいたでしょう。)を身をもって知る方だと思い起こした。そこにふっと吹き込む隙間風に、イエスの息を感じる思いをしながら、またそれぞれの場所に遣わされていく。ヨハネの時代から今に至るまで、復活のイエスが来て、平安を告げてくださる言葉を聞きながら、またここから遣わされていく歩みを繰り返しているのです。
「十字架と復活の主イエスの父なる神。主は死や悪よりも強く、復活し、来て、平和をもたらされました。私たちは壊れた扉を閉めて、安心できず、どう開けたらいいかも分からなくなります。だからこそ主が入って来てくださいます。日々おいでください。平和の宣言を聞かせてください。息を吹きかけて、派遣してください。主の復活が、私たちの希望、忍耐、賛美となって、ここから遣わされる生活で、あなたがなさろうとしている業に溢れていきますように」
[i] 18節で、最初にイエスに会ったマリアが「私は主を見ました」と伝えてはいます。他にも先にイエスに会った弟子はいたようで、それを聞いて弟子たちはここに集まったのでしょう。でも、まだ信じられたわけではありません。
[ii] イエスの復活は、弟子たちに出会い、平安を届けるための復活でした。そして、弟子たちの言葉を通して、イエスは多くの人に出会い、私たちにも出会ってくださいます。そして、私たちが恐れや孤独で、心閉ざしている中に、イエスは不思議にも入って来、「平安があなたがたに」と言われるのです。
[iii] 「平安は「平和」とも訳されます。平安というと心の穏やかさ、平和というと争いや心配事がない、環境的な比重があります。ここで約束されているのも、単に穏やかな気持ち、内面的な平安ではありません。平和・平安の両方を含めた広い平和の状況です。旧約聖書のヘブル語でシャロームという恵みが完成した状態です。神と人間との関係が完全に修復された状態で、それを中心に、環境、心、人のあらゆる面があるべき状態に修復され、借金がすべて清算され、繁栄している――それが「わたしの平安」と言われる、イエスご自身の平和シャロームです。」2024/3/3 ヨハネの福音書14章22~31節「わたしの平安を与えます」。また、平和・平安 シャローム ヨハネの福音書における用例を参照。
[iv] カール・バルトの言葉、加藤常昭『ヨハネによる福音書 5』、200ページ
[v] ヨハネの福音書19・34~37。
[vi] 創世記2・17「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」 この箇所のギリシャ語訳では、同じ動詞が使われます。
[vii] エゼキエル書37・1~14:主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。2主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。3主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」4主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。5神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。6わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」7私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。8私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。9そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」10私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。11主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。12それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。13わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。14また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る──主のことば。』」