ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2024/10/5 ヨハネの福音書19章28〜30節「イエスは渇いた」交読:詩42篇

イエス・キリストが十字架で仰った言葉が、今日の所に二つ伝えられています。聖書の四つの福音書がそれぞれに、十字架上のイエスの言葉を伝えています。合わせると、七つの台詞があって、「十字架上の七つの言葉」とも言われます。

第一「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」[i]

第二「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[ii]

第三「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」[iii]

第四が前回の「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と「ご覧なさい。あなたの母です」。

そして、第五が今日の28節

「わたしは渇く」。

第六が30節の

「完了した」。

最後、第七が「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」[iv]

これで七つ[v]。そのうち三つがヨハネにあり、今日はその二つを読みます。

28それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

十字架に磔にされ、何時間も晒されている時、脱水症状が起きて来る。イエスもこの時、本当に喉はカラカラだったでしょう。水が欲しいのに飲めないのがどんなに苦しいか、想像してみてください。イエスの「わたしは渇く」という台詞自体、渇き切った喉から発せられた、掠(かす)れた声でした。しかし、それはイエスが思わず呟いてしまった弱音、ではありません。

「すべてのことが完了したのを知ると」

であり

「聖書が成就するために」

とあります。この「完了」と「成就」は同じ動詞で、目的が果たされる、ゴールに辿り着く、という意味での「終わり」のことです。イエスが十字架にいのちを捧げた時、イエスの目的は果たされました。ヨハネが伝えるのは、前回見た通り、兵士たちがイエスの服を分けて、イエスが母と弟子とを新しく親子の縁組をしたこと、だけです。しかし、そこには神のご計画が凝縮されていました。神の子イエスがご自分を捧げたことは、私たちにいのちを与えて、そこに救いのためのすべてが完了したのです。イエスの十字架で、私たちの想像を絶する神の業が、目的を果たしました[vi]

イエスはこの時、すべてのことが完了したのを知りました、だからこそ、息も絶え絶えだったでしょうに「わたしは渇く」と(言わなくても分かり切ったことを)力を振り絞って、掠れ声で公言しました。この「聖書が成就するために」について、新改訳聖書の欄外に二か所あります。一つは前回も引用した詩篇22篇の15節で

「私の力は 土器のかけらのように乾き切り 舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上に あなたは私を置かれます。」

まさしくイエスの十字架を予知したような言葉です。もう一つ、詩篇69篇21節は

「彼らは私の食べ物の代わりに 毒を与え 私が渇いたときには酢を飲ませました。」

で、この続きに重なります。

29酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの先につけて、イエスの口もとに差し出した。

酸いぶどう酒、あるいはワインビネガーを差し出した、というのです。まさに「渇いたときに酢を飲ませる」という残酷さ、にも思えます。ただ「酸い葡萄酒がいっぱい入った器がそこに置いてあった」こと自体、兵士たちの喉の渇きを癒すため、薄めて飲むためでした。兵士たちの悪意とばかりは言い切れません。(皆さんにも、酢なんて飲みたくない人も、お酢のドリンクが好きな人もいるでしょう?)「聖書が成就するために」、つまり聖書が目的を果たすために、とは細かな聖句以上のことでしょう。イエスの渇きは、聖書全体のゴールなのです。

ヨハネの福音書は最初から「水」が大事な小道具でした。2章のカナの婚礼では、水が極上のワインに変わり、3章では「水」が新しく生まれることの象徴でした。何より4章では、サマリアの井戸でイエスとサマリアの女性が交わしたのが水を巡る会話でした。イエスは、彼女に水を飲ませてくれるよう頼みます。女性は驚きます。イエスの民族とサマリア人は犬猿の仲で、まして民族の違う女性に、男が水を乞うなんて、常識では考えられなかったからです。イエスは、この女性にわだかまりなく声をかけ、そしてその会話は、井戸の飲み水から、人としての深い渇きを癒す、いのちの水の話題になります。彼女は何度も捨てられた人生を送り、人として深く渇いていたのでしょう。その彼女が、イエスとの会話を通して変えられ、最後は、喜びに溢れて町に帰って人々をイエスのもとに連れて来たのでした。

イエスはこの女性の渇きをご存じでした。イエスが人として渇いたのは、あの渇いた女性に、そしてすべての人の渇きに、近づいて、潤してくださるためでした。エレミヤ書2章13節に、

わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。

交読した詩篇42篇も

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます」

と詠みました。42篇全体が深い渇き、人としての喘ぎ、渇望で満ちています。夏の熱中症の脱水症状には全力で注意するようになりましたが、心や魂の渇きには鈍感です。自分の渇きも後回し。他者を、渇いている人、と見る目を持てば、どんなに世界は優しくなれるでしょう。そんな世界にイエスが来て、十字架の最後に言うのです。

「わたしは渇く」。

 

30イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

頭を垂れて、とは「枕する」[vii]とか「(日が)傾く」[viii]と訳される言葉で、イエスは十字架に頭を休めたのです(ガクッと力尽きた、ではないのです)。霊を渡した、はもっと主体的です。自分から霊を渡した。この言葉はガラテヤ2章20節やエペソ5章2、25節で、キリストが「私たちを愛して、ご自分を与えてくださった/私たちを愛して、ご自分を献げてくださった」[ix]と使われる、十字架の御業の完成を思わせます。無力に息を引き取ったのではなく、イエスは最後まで、惜しみなく、ご自分を与え、私たちを愛して、ご自分の霊を献げてくださいました。

イエスは十字架に、可哀想な犠牲になったのでも、残念ながら殺されてしまったのでもなく、自ら十字架に進み、その想像を絶する苦悶のどん底でも、母や弟子たちに目を注ぎ、聖書が汲み取っている私たちの渇き、うめきを担いきってくださいました。その死は、終わりではなく、イエスの生涯の完了であり、私たちの新しいいのちの始まりです。

「キリストは十字架に殺されて、救いを果たせなかった。だから、それを完成させるのが私たちだ」という団体があれば、それはキリスト教を名乗っていてもキリスト教ではありません。「完了した」というこの言葉は、十字架の主が私たちにいのちを下さる約束の保証です。[x]

 キリストは…二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。(エペソ2章14~18節)[xi]

この完了を強調するためでしょうか、ヨハネは「十字架上の七つの言葉」の最後、「父よ、わが霊を御手に委ねます」の台詞は、平叙文で伝えます。その代わりに

「わたしは渇く」

という言葉を、十字架の「完了」と切り離せない言葉として伝えるのですね。主の生涯の業は完了しました。私たちが何かを付け加える必要はありません。そのことはこの後の復活で明らかになります。この土台に立って、将来はもう完成が待っている、という希望に勇気づけられながら、なお「わたしは渇く」と言われた主を仰ぎながら、私たちは今を生きていますね。まだ世界にも、私たち自身にも、渇きはあります。その私たちとイエスは渇きをともにしてくださいます。時間をかけて私たちを潤してくださいます。そしてまた、他の人の渇きの苦しみに心を留める者へと変えてくださいます。そのようにして完了された御業に与らせてくださいます[xii]

「贖い主、十字架の主の御名を崇めます。十字架の上で、渇き切った声で言われた主の御声は、どんなに強く、愛に満ちていたことでしょう。私たちの渇きをご存じの憐みに感謝します。私たちのためにすべてを完了してくださった御業を感謝します。その恵みに、生涯かけて与っていく、地上の歩みです。渇いた心をそのままにせず、いのちの水を求めます。渇いた信仰ではなく、恵みに潤された信仰を与えてください。この地上の旅路を一日一日導いてください」

ヒソプの草 29節より

[i] ルカの福音書23章34節。

[ii] マタイの福音書27章46節。マルコの福音書15章34節。

[iii] ルカの福音書23章43節。

[iv] ルカの福音書23章46節。

[v] この主題での連続講解説教は、こちらをお勧めします。平野克己、『説教 十字架上の七つの言葉 イエスの叫びに教会は建つ』、キリスト新聞社、2022年。

[vi] 教会学校で交読文を、Ⅰコリント15章3~8節を続けています。(11節まで記載します):「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。6そののち、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。7その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。8そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。9私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。11とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。」これが、原始教会の信仰告白のフォーマットです。「私たちがキリスト教を信じたら天国に行ける/信じるだけで罪が赦される」という人間側の行為による報いの宗教ではないのです。

[vii] マタイの福音書8章20節(イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」)。ルカの福音書9章58節も。

[viii] ルカの福音書9章12節(日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」)、24章29節(彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。)

[ix] ガラテヤ書2章20節(もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです)、エペソ書5章2節(また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。)、25節(夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。)

[x] 聖歌401番で「事終りぬというみ言葉こそ救いの成就されし印なれや」と歌われる通りです。新聖歌109 友よ読みしや 聖歌401 Have you read the story of the cross

[xi] エペソ2章14〜18節:実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

[xii] 「渇きに共感する 新約聖書のヨハネの福音書の中に、十字架に架けられて苦しむイエスさまが、「渇く」と言う場面が出てきます。この「渇く」という言葉は、絶望の嘆きではなく、私たちが渇きを覚えるところにイエスさまの愛が届くための嘆きなのです。私が苦しい時、同じように苦しい体験をしたイエスさまが共にその苦しみを担ってくれます。そのための渇きなのです。また聖書は、人の渇きが癒やされるのは、その渇きに共感してくれるだれかによってであると教えています。かつてアメリカで私が孤独に苦しんでいた時、神さまは一人の青年を送ってくれました。そのように、だれかが孤独になっている時、私もそのところに行って話を聞いてあげられる存在であり続けたいと心から思ったのです。」(中村穣『うめきから始まる信仰』、いのちのことば社、2024年、70ページ)