2024/10/27 ヨハネの福音書19章38〜42節「葬りという信仰告白」
十字架で、息を引き取ったイエスを、日没前に取り降ろすため、脚を折ろうとしたり、脇腹を槍で刺したりした、というのが前回31~37節でした。イエスの体は、まだ十字架にかかったままだったのを、取り降ろさせてほしい、とヨセフが名乗りを上げた、というのが今日です。
38その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。
この人のことは、他の三つの福音書でも伝えていて、金持ちの議員、善良で正しく、神の国を待ち望んでいたと伝えられます[i]。ヨハネだけが「ユダヤ人を恐れてそれ[イエスの弟子であること]を隠していた」と書いていますが、このイエスに心を寄せつつもユダヤ人同胞を恐れて、隠れ弟子になっていたことはここまでも問題でした。
7・13ユダヤ人たちを恐れたために、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。
12・42議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。43彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」
このように、イエスを信じるより、人からどう思われるか、不利益を被るんじゃないかの心配のほうが大きくなって、優柔不断になった人々のことはたびたび触れられていたわけです。その一人と言える、アリマタヤのヨセフが、この時、ピラトに願い出て、イエスのからだを取り降ろしたのです。こんなことを願い出たら、イエスの弟子だと大声で言うようなもので、イエスを憎む多数派からどんな目に合うかしれません。願い出る相手の総督ピラトだって、受け入れる保証はなく、とばっちりを食わない保証はない。しかも、これはイエスが死んで、人々が期待したような奇跡も回復もなかった時、イエスの敵が勝利して、弟子たちが負けたようなタイミングです。この段階でイエスの弟子であることを公言しても、一円の得にもならないようなところで、アリマタヤのヨセフは、この行動をとります。実に意外で不思議なことです。
彼だけではありません。もう一人の人物も登場します。
39以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。
以前とは3章で、7章50節にもニコデモは登場したので、ここが三度目です。3章では夜イエスを訪ね、7章では遠回しにイエスの味方をしようとして黙ってしまったニコデモが、ここでヨセフとともに、イエスの葬りのためにやって来るのです。今まで、黙っていたのに。
ニコデモはこの時、没薬と沈香、二つの高価な粉末状の香料を混ぜ合わせたものを持ってきました。それも欄外にあるように33㎏もです。きっと彼一人ではなく若い者たちにも持たせたのでしょう。急に準備することは出来ませんから、これはニコデモが自分自身の埋葬のために用意していた香料でしょうか[ii]。それをイエスの葬りのために惜しげもなく持ってきた。
この時点で、彼らは三日後に神がイエスを復活させる、とは思えていません。イエスの復活は予告されていましたが、実際に起きるまでは誰も信じていなかったのです。ヨセフとニコデモの二人もそうでした。よみがえりへの確信や期待があったから、ではなく、そんなものは全くなかったのに、ただイエスを丁寧に葬りたい、その亡骸のために出来る限りのことをしたい。その一心な思いから、ヨセフとニコデモが、イエスの埋葬のため、十字架のもとに来ました。
この時、弟子たちは姿を見せません。威勢の良かった弟子たちがどこかに行った中、今まで恐れて、隠れていた二人――弟子たちが見下し、生ぬるいと裁いていただろうヨセフとニコデモが葬りのためにたち働いています。絶命から日没まで、わずかな時間に、作業を終えて、墓に収めなければなりません。ヨセフとニコデモは、血と汗と汚物に汚れてぐんにゃりとした亡骸を、なんとか傷つけまいと取り降ろし、急いで埋葬できる状態にします。「40彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた」。
彼らの服や手も汚れながら、なるべく綺麗に、という思いだったでしょう。この香料は腐敗防止のためではなく、腐臭を抑えることと、そうやって死者への敬意を表すためでした。ユダヤ人の埋葬は、亡骸を早く腐敗させて、一年後に、残った骨を骨壺に入れる、という習慣だったそうです。その腐敗が進む間、香料で臭いを抑え、よい香りで飾ることが死者に対する敬意の表明だったのです。ニコデモとヨセフの行動は、イエスに対する敬意・イエス自身に対する愛から出た、打算のない捧げ物だった、ということでしょう。[i]
ニコデモは、自分の埋葬のために用意していたろう香料を捧げることで、イエスへの心を表しました。そして、
41イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。42その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。
マタイの福音書によれば、この墓はヨセフが自分のために用意していた墓を、イエスのために捧げたものでした。しかしヨハネはそれがヨセフのものだったことよりも「まだだれも葬られたことのない新しい墓であったことに目を留めています。死刑囚は、ローマでは野ざらし、ユダヤはそれは忌避したものの、囚人の埋葬は肩身が狭いもので、共同墓地や無縁墓地のような扱いがせいぜいだったでしょう。それが、イエスは立派な金持ちの墓、それも誰も使ったことのない墓に葬られるなんて、十字架の死刑囚にはあり得ないことでした。莫大な香料とともに丁寧に包まれ、園の真新しい墓に、納められる…。囚人どころか、王様のような埋葬です。
そう、この葬りは王の葬儀のようです。ヨハネの福音書は、十字架がイエスの栄光であり、イエス自ら選んだいのちを捧げた死であると、ずっと描いて来ました。ここでもそうなのです。悲しい埋葬、その後の復活がなければ悲しすぎる死、とは描きません。王なるイエスが、堂々と死なれた。その死においてこそ、イエスが王であることは現された。そしてその体は、尋常ならない高貴な仕方で埋葬された。包まれた体は、釘を打たれ、槍で刺され、血と汗と汚物であっても、それは私たち人間のための傷――私たちの罪と悲惨を味わい知って、いのちを捧げた生涯であって、そこに私たちは慰めと神への賛美と希望を持つことが出来るのです。
キリストを十字架から取り降ろす、この場面を描いた絵も多くあります[iii]。それはやはり十字架に、悲惨や敗北以上のもの、惜しみない愛、神の測り知れない恵みを見て来たからでしょう。苦しみ、孤独、悲しみを神の子が嘗め尽くしてくださった、まことに尊い王なのです。苦しみ、孤独、悲しみを神の子が嘗め尽くしてくださった、まことに尊い王なのです[iv]。
しかし、抱えきれないほどの香料や新品の墓所にもまして、イエスの死が王の死であることの証しは、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人でしょう。今までイエスの弟子であることを隠していた二人が、この葬りに立ち上がります。台詞はありませんから、黙々とだったか、心には後悔や悲しみがいっぱいで、大泣きしながらだったか。いずれにせよ、それはイエスへの尊敬と愛、あるいは友情ともいえる信仰からでした。復活は知らない、またイエスを信じれば救われるから、という思いからでもない。説明できない、イエスご自身への思いが、彼らのうちに湧き上がり、この葬りという信仰告白になったのです。ここにこそ、イエスが言った言葉、
12・32わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。
が成就しています。イエスの上げられた死は「隠れ信者」を「主を愛する者」に変えました。この王であるイエスが信仰を下さるのです。最初は「救われるためにキリスト教を信じる」という信心から始まるとしても、王である主が私たちに下さる信仰は、もっと深く、私たちの心を照らすものです。心から主を仰ぎ、信頼し、主の愛に感謝して踏み出す信仰を下さるのです。
「尊い王、十字架の主よ。主の死は、私たち一人一人を限りなく愛された、いのちの捧げ物です。あなたの命は、ヨハネやニコデモの恐れを取り払い、私たちの打算も迷いも晴らしてくださいます。信仰を自分の誇りとし、他の人を、見える一面だけで裁いてしまう思い上がりを恥じ、悔い改めます。私たちにも、主と主の愛を尊ぶ思いをお恵みください。愚かな自分に死に、主とともにおらせてくださり、そうして測り知れない主のよみがえりに与らせてください」
[i] マタイの福音書27章57~60節、マルコの福音書15章43~46節、ルカの福音書23章50~54節。
[i] 「第30日目〈聖金曜日・受難日〉 マルコの福音書 一五章四六節
そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を 掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
あらゆる時代がぶつかり合い、この日、同じ物語が繰り返されます。あれは 金曜日でした。そして今日も。そしてなんと、この日を私たちは「良い」金曜日(訳注= Good Friday――英語で受難日、聖金曜日のこと)と呼ぶのです。
信仰と畏怖をもって語り継がれてきた聖なる物語の神秘は、かつて起こったことを、 今日も変わらない真実として伝えています。
ヨセフは、亜麻布を地面に広げます。それは目の詰まった白い織物で、人の身長より 長く、二倍の幅があります。死体を包むための布です。
ヨセフは十字架の後ろ側に梯子を立て掛けます。
その梯子を上ります。
それから、死体の胸の周りにかけたロープを引っぱります。
ロープは主イエスの脇の 下から十字架の横木の上に巻かれています。ヨセフはその両端を、下から見上げている 百人隊長のほうへ投げ落とします。それからいきなり力を込めて――苦しい気持ちに力がこもってしまったにちがいありません―――横木から釘をねじり取ります。まず左の釘から。イエスのからだが大きく揺れ、片手だけでぶら下がります。それから右手の釘を。
からだが前に崩れ落ち、ロープがピンと伸びます。百人隊長はロープの端をそれぞれ左右の手に握っています。ヨセフは低い声で「待て」と言うと、梯子を降り、前かがみに なった死体の下に、死んだ男の雨のように垂れ下がった髪の下に立ち、かかとの釘を抜 こうとからだに力を込めます。両脚もだらんと垂れ下がります。
「今だ」とヨセフはささやきます。
左腕でイエスの両膝を抱きかかえます。
「降ろしてくれ。」
ローマ人の百人隊長がロープをゆるめるにしたがい、そのからだは悲しいほどに沈みこみ、盛り上がった両肩が耳にくっついてしまいます。なんと無抵抗な姿でしょう。ヨセフは胴を右腕で受け止めます。イエスの頭は後ろにのけぞり、口が開きます。その目には瞼がおおい、何も見てはいません。髪がヨセフの肘にかかります。イエスはやつれ果て、空っぽのずた袋のように軽いのです。息絶えたからだのなんと軽く、哀れなほど に小さいことか。ヨセフは膝をつき、亜麻布の上にイエスを横たえると、埋葬のために布を巻きつけ始めます。
どこかで女が、この世に対し、長く、静かで、つらそうなため息をついています。いったいだれが?
墓の入口は岩にくり抜かれた穴で、人の腰ほどの高さしかありません。ヨセフは後ろ向きに穴に入ると、かがんでイエスの肩を持ち上げます。百人隊長は両膝をつき、イエスの脚が地面を引きずらないように支えます。
「ありがとう」と言ったヨセフの声が、がらんとした岩の中に反響します。「助かった。これでいい。」
彼は死体を安置すると、夕刻の闇に出てきます。陽はすでに沈んでいます。空は空っぽで、空気は微動だにしません。
墓の入口の下の岩棚には、溝が下方向に掘られています。ヨセフは平らな石をその溝に転がします。一回転ゆっくり転がし、さぁ、こうして穴をふさいでおけば安心です。
獣一匹、あのからだを汚すことはないでしょう。」
黄昏の中に二つの音が聞こえます。石と石とが擦れ合う音と―――それから、もう一度 静かなため息が。低く、どうにも抑えようがないといった無言のため息が。いったいだれが?
そして入口は閉じられます。
なすべきことはなされ、すべては終わりました。
* *
主よ、あのため息は私です。
泣いていたのは私です。現代に生きる私が、あなたの埋葬に立ち会っているので す。あなたの死は、決して遠い場所での、遠い過去の出来事ではなく、私自身のことのように常に身近です。あなたの死を悲しんで私は泣いています。
と同時に、私の死にあなたの存在があることがありがたくて、涙が止まらないの です。あぁ、私の救い主よ、あなたの死に対し私が泣くことしかできなくても、あなたは私自身の死から私を救い出してくださる――そのことがありがたくて、泣いているのです。 アーメン」
ウォルター・ワンゲリン『十字架の道をたどる40の黙想』(内山薫訳、いのちのことば社、2006年)206〜209ページ
[ii] 価格にして、3万デナリ、ナルドの香油の百倍だったろう、とKeenerは推測しています。
[iii] キリストの十字架降下の絵画13点。救世主の死に嘆き悲しむ二人のマリアと信者達 | メメント・モリ -西洋美術の謎と闇- (mementmori-art.com)
[iv] 最も有名なのは、ルーベンスの作品でしょう。その絵を見ることを悲願とした、薄幸の少年の物語が「フランダースの犬」です。