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2023/9/3 ヨハネの福音書10章11-18節「わたしは良い牧者です」

イエスが

「わたしは良い牧者です。」

と言われる、聖書に立ち現れるイメージでも印象深い言葉です。「良い」とは「善良・優秀」というだけでなく「気高い」とも訳せる言葉です[i]。それはどんな良さ(美しさ)でしょう? それを最もよく表すのが

「羊たちのためにいのちを捨てる」

という言葉です。それは全く意外な「良さ」「美しさ」でしょう。この「いのち」は、

10わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

とは違う言葉です[ii]。言い方を変えれば、10節の「いのち」は、生命の一面――願いが豊かに満たされ、喜びや自由、安心、信頼、愛し愛する、といった質の側面に焦点を当てています。11節の「いのち」は、生命の別の一面――私たちの人生、魂、人格とか心を照らします[iii]。そして「捨てます」には欄外に

「あるいは「与えます」。」

とあり、もっと正確には「与え続ける・捨て続ける、ずっとそうしている」のニュアンスです。良い牧者は「いざという時には羊のために死ぬ」以上に、良い牧者の生涯が羊に自分のいのち、存在・心・人生を与えている毎日なのです[iv]。羊たちが生き生きと、のびのびと、互いに生かし合ういのちを得るために自分を与えているのです。イエスはそんな「良い(美しい)牧者」だと名乗り、その引き合いに、

12牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。13彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。

「羊と羊飼い」とは、長閑(のどか)な田園風景に佇(たたず)む「可愛い羊と優しい羊飼い」というイメージとはかなり違います[v]。熊やライオンに襲われることもありました。しかし、イエスはどんな危険があっても羊たちを心にかけ、自分のいのちを与える良い牧者だ、というのです。因みに、牧場で「羊のショー」と言えば、羊が何もせずに毛を刈られる様を見る「丸刈りショー」か、羊の群れを牧羊犬が追い込んで柵に入れるシープドックショーです[vi]。犬は狼の親類ですから、羊が狼を恐れる習性を利用して、品種改良してきたのがシェパードやシープドッグだそうです。人間が犬に囲い込ませれば、牧者は一匹一匹を覚えなくても、多くの羊を管理できます[vii]。イエスの方法は違います。群れを管理するのでなく、羊を一頭一頭呼び、信頼の絆で導くのです。

14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。15ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。

父(なる神)と(子なる神)イエスが知り合っているのは、永遠の神の、特別な関係です。それと同じだなんて、私たちは誰であれそんな知識には及びもつきませんし、人間とイエスの関係と御父とイエスとの関係は根本的に違うはずです。しかしイエスはその違いを飛び越えて、私たち人間との関係(繋がり)を喜ぶのです。この「知る」は「愛する」と言い換えられます。そして、その知る、愛するの先には、「自分のいのちを捨てる」、惜しみない献身があります。

この言葉は9章からの続きで、時の指導者たちや社会の権力に対して語られました。権力が人を振り回し、庶民の苦しみを「本人か親の罪のせいに違いない」と決めつけたり、従わない者は脅したり追い出す――。そういう社会に対して「わたしは良い牧者です」という宣言は、常識をひっくり返す言葉です。私たちはみんな羊。弱く、迷いやすく、お世話が必要で、お互いが必要で、それに勝って、牧者の声に聴き従っていくことを必要としている羊です。しかし何よりも良い牧者であるイエスが、私たちを、いのちをかけて守り続け、導き続けてくださいます。この言葉で私たちは自分の身の程と、牧者なるイエスがこの私たちを心にかけ、豊かに生きることを願い、そのためにいのちを与え、十字架も今この時もご自分を惜しまず与えてくださる恵みを想わされます。更にイエスは、その外にまで思いを致します。

16わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聴き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。

当時の社会が「仲間」とは見做さなかった外国人やサマリア人も、イエスは「わたしの羊」とみて、導く決心をしています[viii]。イエスの言葉に聞き従う羊、違いはあっても同じ羊だと見ています。やがて、一人イエスを牧者とする、一つの群れ、一つの教会、一つ神の家族と必ずなさるのです[ix]。そのためにもイエスはご自分のいのちを捧げるのです。イエスは、私たちを縛っている権威への恐れや資格への誇り、他者への無関心や不寛容から、解放します。

17わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。[x]18だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。[xi]

とても複雑に思えます。でもその複雑な、父の愛と命令、いのちを捨てる権威も再び得る権威もあるといえるイエスの特別な権威があっての「わたしは良い牧者です」というイエスの言葉なのです[xii]。私たちは、その神とイエスの、複雑な、理解を超えた愛によるいのちを戴いた、羊たちのようなものなのです。強い者が偉そうにしたり、嫉妬したり余所者扱いしている。それはすべて団栗ならぬ「羊の背比べ」です。狸ならぬ「同じ穴の羊」です。イエスは良い牧者です。私たちには、私たちのためにいのちを捨て、再びいのちを得た方イエスがいます。そしてそのイエスが、他の囲いの羊をも導いて、一つにしようとしている、その羊の一人なのです。

日本では羊に馴染みがなく、か弱いだけのイメージや、山羊との区別もつかず犠牲(スケープゴート)と結びついているかもしれません。良い牧者は、そんな羊を決して考えていません。人間が狼を牧羊犬に品種改良できるなら、ましてイエスは、不安に駆られて生きることに慣れた羊や、苛めることが染みついた羊をも変えて、主の声を聴いて豊かにいのちを得る羊、他の羊をも思いやる群れに変えることが出来るはずです。そのために、いのちを――ご自分を与えるイエスです。

交読しました詩篇23篇

「主は私の羊飼い[xiii]

も合わせて思い巡らしましょう[xiv]。主が私の必要も、渇きも疲れも、悩みも孤独、隠している間違いも、死や禍への恐怖も、すべての願いもご存じです。

「死の陰の谷」

でもともにいて、導き、場合によっては鞭や杖で救い出しつつ、喜びの宴会に与らせて、今の人生を導いてくださることが歌われます[xv]。この方は私たちにいのちを、豊かに得させてくださいます。そして私たちが「他の囲いにいる余所の人」と思う人にも、「良い牧者」として豊かないのちを得させるため、ご自分のいのちを与えるお方です[xvi]

「主よ。よい牧者としてご自分を惜しまず与えてくださった、驚くべき愛の中に、私たちはいのちを与えられ、豊かな祝福を戴き、恵まれ、導かれています。羊同士の争いや愚かな背比べや奪い合いさえ絶えない中ですが、だからこそ、主よ、あなたの養いに与り、強められ、あなたの羊たちとして生かされる恵みに日々立ち帰らせてください。今あなたがいのちを与えた証しである聖餐に与ります。御父の愛と、囲いの外にいる人々をも思いつつ、戴かせてください」

[i] ギリシャ語カロス。

[ii] 「 ギプシュケーは,70人訳聖書が[ヘブル語]ネフェシュの訳語にあてた語で,ネフェシュと同様,肉体的いのち(マタイ2:20),人間(使徒2:41,ローマ13:1),人格的主体たる我,思い,欲求,心,精神,知情意の座・人間精神の本質的部分としての「たましい」(Ⅰテサロニケ5:23),内的生命の主体(Ⅰペテロ1:9)など,多様な意味を持っている.ギゾーエーは,存在を生きたものにしている根源的エネルギーを言い表す語で,肉体的・地上的いのち(使徒17:25,ヘブル7:3),より高次ないのち・霊的いのち(ローマ6:4),死と対立するいのち(ローマ8:38,Ⅰコリント3:22),永遠のいのち(Ⅰヨハネ5:11,12),復活のいのち(ヨハネ5:29),神のいのち(エペソ4:18)を表す,非常な広がりと深みを持つ語である.」「いのち」『新キリスト教事典』https://www.wordoflife.jp/bible-959/

[iii] 「永遠のいのち」という場合はこちらです。前者のいのちが「永遠」なら、ただ永久に生き延びること、自己保存に過ぎませんが、そうではなく、今ここで喜びや解放に溢れ、愛され、愛する者として生きる――それが「永遠のいのち」です。二つのいのちは矛盾しません。イエスはご自分がいのちを捨てるだけでなく、ヨハネの福音書15章13節で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言い 、自分のいのち(人生、魂)を与えることを「犠牲」や「道徳」でなく、最大の愛、つまり豊かないのちだと言われました。

[iv] ナウエン:「私はこれまで、旅する人々のお手伝いをしたいと思って生きてきました。けれども私は私自身が今歩んでいる旅の他には、ほとんど何も提供するものがないことを知りました。喜び、平和、許し、和解、これらのものが私自身の血となり肉とならないとしたら、どうしてこれらのものを伝えられるでしょう。私はまた、常に人々の良き羊飼いでありたいと願ってきました。けれども、私が繰り返し知らされたことは、良き羊飼いは友のために自分のいのちを捨てる、ということでした。自分のいのち、それは自らの痛みと喜び、疑いと希望、恐れと愛である、ということです」。『今日のパン明日の糧』7ページ。

[v] ヤコブが叔父の羊を飼っていた二十年を振り返った時、こうまとめました。「私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。39野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。40私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。」(創世記31章38~40節)。また、少年ダビデが羊飼いだったのは、8人兄弟の末っ子として押し付けられ、逃げ出したがっていた役割でした(Ⅰサムエル17章27節)。

[vi] 羊は、芸を仕込めるほどの才能はありません。しかしそのIQは、豚よりは低く、牛と同程度、とのことです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%84%E3%82%B8

[vii] 「この国では、羊が犬を使って制御され、動かされているのを見ることに慣れています。皆さんの多くは、テレビで「一人の男とその犬」を見たことがあるでしょう。オオカミは伝統的に羊を捕食する動物であるため、この犬の使用は羊の本能的な恐怖に基づいています。良い羊飼いであるイエスはそのようにして羊を制御するのではありません。中東では今でも羊飼いは後を追うのではなく先を歩くことで群れを動かし、犬を使って恐怖を感じるのではなく声を使って群れをコントロールしている。残念ながら、歴史的に教会はしばしば恐怖を利用して群れを制御することを好んできた。」https://iffleychurch.org.uk/sermons/sermon-the-good-shepherd-and-his-sheep/ より。Google翻訳による。現代の牧羊は、大量飼育、羊の品種改良を続けてのもの。教会も、大量生産、統計的なマネージメントが優先されやすい。数ややりやすさより、このイエスのいのちに一人一人がじっくりと養われることと、自分たちとは違う羊たちも導かれる牧者の声に耳を傾けることに立ち帰りたい。

[viii] 囲いに属さないほかの羊 イザヤ書56章8節(──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」)、エゼキエル書34章11~13節(まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。12牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す。13わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し、国々から彼らを集め、彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う。)、マタイ8章11節(あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。)、ヨハネ11章52節(また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。)、12章32節(わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」)、17章11節(わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。)、20~22節(わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。21父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。)、エペソ書2章13~18節(しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。14実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。)、Ⅰペテロ2章25節(あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。)、エゼキエル書34章23節(主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは主である。わたしが語る。)、37章24節(わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただ一人の牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行う。)

[ix] 参照、エペソ書1章7~10節(このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。9その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。)、2章14~18節(実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。)、3章3~9節(先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。4それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。5この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。6 それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。7私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。8すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。)

[x] イエスがいのちを捨てたら父はイエスを愛する、とは言われていないことに注意。愛は無条件です。犠牲を理由にして愛することはありません。父は永遠にイエスを愛しています。だからこそ、イエスが羊たちのためにいのちを捨てるほどの愛をもって生きることで、ますますイエスを愛します。

[xi] このイエスの十字架と復活への伏線でしょう。十字架は当時の社会の中で最悪の死、最も呪わしい死、神にも呪われた最期だと思われました。しかしイエスの十字架の死は、無理矢理や敗北ではなく、自ら選ぶ道であり、それは再びいのちを得るため、そして、御父からの命令であり、それは御父の愛の証しでもある、というのです。

[xii] 「権威エクスーシア」 1章12節(しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。)、5章27節(また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。)、10章18節(だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」)、17章2節(あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。)、19章10~11節(そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」11イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」)

[xiii] 詩篇23篇:主は私の羊飼い(欄外注:あるいは「私の牧者」。直訳「私を飼う方」)。私は乏しいことがありません。2主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。3主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。4たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。5私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。6まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。

[xiv] これは、ジェームズ・ブラウン・スミス『エクササイズ 生活の中で神を知る』(松本雅弘訳、いのちのことば社、2016年)の第四章「神は気前がいいお方」(119ページ~)で挙げられている「詩篇23篇を祈る」という「魂を鍛えるエクササイズ」です(146ページ)。「詩篇23篇は、神が私たちを慈しみ、備えをなし、祝し、たとえ辛い状況にあっても共にいてくださる神の御国を指し示す美しい歌です。詩篇23篇の神は気前がいいお方です。神の寛大な備えと守りと配慮のゆえに、私たちにとって欠乏しているものは何もありません。神は憩いへと招いてくださり、そのところで私たちは活力を取り戻し回復していきます。/私たちにとって最も痛みを伴うような場面においてさえも、神は、そうした私たちを指導し案内してくださいます。そして神は私たちとともにいてくださるので、恐れることなく生きることができます。私たちに危害を加えようとする者たちの前で、神は私たちのために「食卓」さえも準備してくださいます。しかも単に私たちの必要を満たしてくださるだけではなく、必要以上に豊かに施してくださり、私たちの杯を溢れさせてくださいます。私たちの羊飼いである神とともに歩むとき、試練や苦しみの時期も含めて人生全体がよいものであり、憐れみそのものとして見ることができるのです。」(146ページ)、「この詩篇の中では、大いに気前がいい神についての物語が語られています。ここで語られる神のイメージによって心を洗い流すことによって、あなたの魂にこの真実な物語を深くとどめることができます。そうすれば、あなたの心と体とがこの詩篇のことばによって整えられ始めるでしょう。」(148ページ)

[xv] 更に詳しくは、マックス・ルケード『心の重荷に別れを告げて 詩篇23篇の約束』(佐藤知津子訳、いのちのことば社、2006年)をぜひお読みください。

[xvi] ヘンリ・ナウエンも言います:何も欠けることがないよくなじんだ祈りを、繰り返していねいに暗唱することが、心を神の国に定めるのにな役立つのでしょうか。それは、そのような祈りの言葉が、心にある不安を平安な思いへと変える力があるからです。/私は長い間、次の言葉を祈ってきました。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」(詩編2)。私は朝、椅子に静かに座って、これらの言葉を祈り、自分が何を唱えているかに想いを向けることだけをしました。また日のうち、あちこちと出かけている最中でも、これらの言葉をひんぱんに祈りましたし、毎日の日課をこなしていく中でも祈りました。これらの言葉は私の現実生活とは対照的に、強固な拠り所となりました。/私はたくさんのことで気が散ります。いつも混んでいる道路、見苦しいショッピング街が目に入ってきます。歩く道沿いに水の流れがあっても、ほとんどが汚れています。しかし、「主は羊飼い……」と唱え続け、私を養ってくださる神の愛が心にたっぷりと注がれるようにすればするほど、混雑した道路、見苦しいショッピング街、水の汚染は、私が何者であるかの真理を語っていないと、ますます気づくようになります。/私は、この世を支配する力やこの世の王国にではなく、自分の羊をよく知り、羊からもよく知られている素晴らしい羊飼いに属しています。私の主であり、羊飼いであられる方が真に臨在するところには、不足するものは何もありません。そのお方は、私が心から願っている休息を与えてくださり、落胆という暗い穴から私を引き上げてくださいます。過去、何世紀にもわたって、数え切れないくらい多くの人々がこの同じ言葉を祈り、そこに安らぎと慰めを得てきたと知るのは良いことです。ですから、私がこれらの言葉を祈っているときは、一人ではありません。私のすぐ近くにいる人々、はるか遠くにいる人々、今生きている人々、最近、あるいはずっと昔に亡くなった人々という、数知れない男性や女性たちに囲まれているのです。そして、この同じ言葉は、私がこの世を去ったのちもずっと、それこそ時が尽きるまで祈り継がれることでしょう。/これらの言葉が、私の存在の中心に深く入ってくればくるほど、よりしっかりと私は神の民の一員となり、「この世に属することなく、この世にいる」という意味を、より深く理解できるでしょう。」ナウエン『ナウエンと読む福音書』65~66ページ