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2023/8/6 ヨハネの福音書9章24-34節「一つのことは知っています」

9章の最初から、生まれつき目の見えなかった人を通してイエスがなさった出来事が続いています。既にイエスを煙たがっていたパリサイ人(宗教的な指導者)たちは、この自分たちにとって不都合な真実を何とかしてもみ消そう、非を見つけようとする。今日の24~34節は、もう一度、目を癒された人を召喚して、言質を取ろうとする件です。

ここでパリサイ人側は、24節

「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」

と強気に出ます。28節でも

「お前はあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。」

云々と尊大です。けれども、癒された人本人は淡々と答えていくのですね。

25…「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」…

27…「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」…

30…「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。…」

居並ぶパリサイ人たち、権力者たちを前に、物怖じしない応答をします。この人の勇気とか信仰から、皮肉めいた挑発的な発言をしたのでしょうか。或いは、本当に純朴で、深く考えないまま、しかしあるがままの事実を語り、単純にパリサイ人たちの言葉に驚いている言葉、とも読めます。童話の「裸の王様」の話で子どもが笑って「王様は裸だ」と言った爆弾発言も、賢く勇気があったのでしょうか。いや、単純に素直だったから、だったのでしょう。この、目が見えるようになった人も、ごく単純に自分に起きた一つのこと、盲目であったのに、今は見えるということ、その否定しようのない事実を、屈託なく語っているようです。彼は言います。

31私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。32盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。33あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」

確かに、旧約聖書に癒しや奇蹟の記事は少なくありませんが、生まれつき見えなかった人を癒した、という奇蹟の記録はありません[i]。ただ、預言者イザヤが、神のわざや将来のメシアの働きとして、見えない人の目を癒す、というだけです[ii]。こんな癒しは聞いたことがない。だから、自分の目を開いたイエスは、神から出ておられるに違いないでしょう、と言うのです。

この時点での彼はイエスがキリストだ、神の子だ、十字架に死に、復活した救い主、とは知りません。イエスを信じますというのはこの先の38節で、まだ

「神を敬う人」

と思っています[iii]。彼の思いは、自分の目が開いた、見えなかった世界を見ている、というリアルな証しであって、イエスがわかった、救いが分かったという「霊的な目」が開いた話ではありません。

むしろパリサイ人たちは霊的な洞察力を自認し

「イエスは罪人だと知っている、イエスがどこから来たかは知らない」=「見て分かっている」

といいます[iv]。霊的に見えているという自負で、かえって現実を見えません。34節の

「…おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」

は2節で弟子たちが口にした因果応報の色眼鏡です。加えてこの「罪」は複数で、「全く」は「隅々まで完全に」の意味です[v]。先天的な障害を見て、それは不幸で何か一つならず幾つもの罪の呪いに違いないと決めつけて、反論されたら「罪人が分かった口を聞くな」と怒り、宮から追い出す、つまり神の民から追放するのです[vi]。とんだ「見えるつもり」の人々でした[vii]。そうじゃない、とイエスは仰るのです。目が見えない人は自分たちより知らなくて迷って心まで暗闇だ、そんな不幸は呪いに違いない、とは全くの偏見です。因みに、先月芥川賞を取った『ハンチバック』は難病患者の目から健常者の偏見もユーモラスに描いた作品だそうです。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は視覚障害者への思い込みをひっくり返してくれます[viii]。イエスも目の見えない人を「全く罪の中に生まれて」と決めつける色眼鏡とは全く無縁でした。イエスは彼を無条件に健やかにしました。目と共に口も開かせた時、彼は神の恵みに与った体験を素朴に証ししました。それは「不幸の原因は罪」という人間が作り上げた薄っぺらな宗教より遙かに深く豊かな、恵みが現実である証しです[ix]

イエスを知り、罪の赦しや永遠のいのちを知って、目から鱗が落ちる思いをした、という証しも大事です。でもこの人は違います。まず目を開かれ、現実を見ました。聞かされてきたよりも遙かに広い現実を見ました。宮の権力は彼を自分たちの教えの中に抑えつけ、挙げ句は彼を宮から追い出しました。しかし追い出されたそこは、狭い宮よりも広い現実です。何よりそこにイエスがおられ、彼を見つけて、新しい歩みを始めてくださるのです[x]。作り上げられた、狭い宮での物乞いより、もっと広く希望に満ちた新しい生活をイエスは下さいました。まず目を開かれる体験をし、その後にイエスが誰かと分かる。その順番は後先それぞれに違うにせよ、イエスが主だと分かるだけでなく、主が作られたすべてをあるがままに見る目も開かれる。

振り返って、私はイエスからどんな目をいただいたろうか。聖書の言葉で、目が開かれ、どう見るように変わったでしょう。毎日を、自然を、自分を、他者を、苦しみや悲しみを、どんな目で見るようにされたか、振り返えれば思い起こすことがきっとあるでしょう。分からないことも多いです。質問されても答えられないかもしれないけれど、無理に納得させようとももうしない…。ただ一つのことは知っています、あの方は私の目を開けてくださった――何でも罪のせいにしたり、人を裁いたり、現実に目を閉ざす狭い宗教から、神の深い恵みで自分も他者も見る目、現実をあるがままに見つつ、そこに現れる神のわざを見る目、分からない中でも、イエスがともにいて御心をなされることに信頼する目をくださった――。それぞれの小さな、でも確かに戴いてきた恵みがあるのです。

私たちが力むことによってではなく、幼子のような素朴な喜びによって[xi]、主を礼拝し、世界を主の目で見る目でここから出て行くのです[xii]

「私たちの目も開いてください。見たいものを見るために、ではなく、あなたの世界がどれほど大きく、私たちの言葉を超えているかに驚きたいのです。あなたの造られたものも、説明の出来ない悲しみや痛みも、答えられない疑問も、そしてその中に現される神のわざを、どうぞ見せてください。御言葉で目から鱗が落ち、イエス様を知る前の、狭く偏った古い見方に気づいて驚き、新しい、希望とあわれみの世界に日々驚き、素朴にこの恵みを証しさせてください」

[i] 預言者エリシャは、弟子の心の見えなさを、祈って見えるようにし、神が目を打たれて見えなくされた敵軍の目を開くように祈りました。(Ⅱ列王記6章17節:そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。;同20節:彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。)

[ii] イザヤ29章18節(その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。)、35章5節(そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。)、42章7節(こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。)、16節(わたしは目の見えない人に、知らない道を歩ませ、知らない通り道を行かせる。彼らの前で闇を光に、起伏のある地を平らにする。これらのことをわたしは行い、彼らを見捨てはしない。)、18節(耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。)、詩146篇8節(主は目の見えない者たちの目を開け 主はかがんでいる者たちを起こされる。 主は正しい者たちを愛し))、そして、エリシャが、霊的な目を開くことを祈った出来事のみ。

[iii] 31節 神を敬うセオセベース 聖書でここのみ。

[iv] ギリシャ語エイドンの過去形。

[v] 「全く」のギリシャ語ホロスは「完全に」「細部まで」の意。

[vi] パリサイ人たちは自分たちの頭の宗教に合わないと拒絶して、彼を締め出す。しかし実は、彼らこそ、自分たちの狭く、現実と相いれない暗さの中に閉じ籠ってしまうわけです。「これは多くの場合、シナゴーグからの正式な破門として理解されます(Goodspeed、NEB、NLT などの多くの現代訳ではそのように訳されています)。問題は、サンヘドリンだけが破門する権限を持っていたことだ。この特定の尋問者グループが公的な立場で行動していたのでない限り、彼らの行動は集会からの無礼な退場として理解した方がよいでしょう。 Temple 1:159 は、これを「法廷からの軽蔑的な追放」と呼んでいます。パリサイ人による尋問は間違いなくシナゴーグからの完全な破門につながるだろうが、現時点でその特定の措置を講じたかどうかは明らかではない。」Mounce, DeepLによる翻訳。

[vii] モーセの、といっている時点で、以前イエスから受けた非難に答えられなかったことに懲りていない。ヨハネの福音書5章45~47節(わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。46もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。47しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」)、6章32節(それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。)、7章19節(モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」)、22~23節(モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。23モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。)

[viii] 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社、2015年。また、そこから生まれた絵本『みえるとかみえないとか』(ヨシタケシンスケ、伊藤亜紗共著、アリス館、2015年)もお勧めです。目の見えない人が「不幸」、「闇の中の人生」と決めつけるのは一方的な暴言であることにあっさり気づかせてくれる両書です。

[ix] 「浅薄な形のキリスト教の軽率な信仰のうちに育ってきた多くの人々が、天文学の書物を読むことによって、実在界の大部分が人間に対して荘厳とも言うべき無関心を示していることをはじめて知り、おそらくそのために信仰を捨てた場合、そのときにこそ彼らははじめて、純粋に宗教的な経験を持ったかも知れないのである。」C・S・ルイス『奇蹟』、81ページ。

[x] 主イエスは私たち一人一人の様々な必要・渇きを通して、目が開かれる恵みを下さる方でもあります。人間は肉体の必要や今を生きる悩みや様々な必要を持った存在です。人間が小さな頭で考えた宗教は人間の多様さを十把一絡げにして、苦しみさえ「全く罪の中にいる」と一括りに決めつけ、思い込まされてきた人は、イエスとの出会いによって、目から鱗が落ちる恵みに与ります。病気や孤独、自分の価値、意味のある仕事、将来への不安…、そうした様々な渇きがすべて入り口となりました。人が、罪や闇の中で真理を求めている、死への恐怖と死後への求道、という霊的なニーズで信仰に入る場合もあれば、生き甲斐・生きる意味、安心できる人間関係、自由・解放・自分らしさの追求、貧困・飢餓・病苦の解決、構造的な暴力・社会問題への疑問を持っている場合もある。どの場合も(宗教的な求道も含めて)、入口となり、神との関係の回復という目的へのきっかけとなるのです。

[xi] 「幸いなるかな。すべてのことに正しい答えを持っているわけではない人は。

今の時点では、「わかりません」こそが 最善の応答であり姿勢であると気づく人は。

学ぶことも、変化することも その途中で間違えることも恐れずに前に進む人は。

幸いなるかな、不確かさによって 引き伸ばされ、圧迫され、引っ張られる人は。

今の自分は以前の自分とは違うのだから もう同じままではいまいと決めた人は。

自分で望んだわけでもなく、 私たちは未知のものに引っ張り込まれてしまいました。

でも、取り組むべきことは同じです。

混乱しているかのような状況の只中で、 愛をもって真理を明らかにするのです。

 

幸いなるかな、共同体は真理をもっと深く知るのを 助けてくれると気づく人は。

今まで見えていなかったものを見るために そちら側にそっと顔を向けなければならないとしても

ハンマーで叩き合うような世の中で 壊れやすい者となり、

間違えたり 新しいことを学んだり 正しさよりも謙遜と優しさを選ぶには 勇気がいります。

どうか私たちが、なんでもうまくこなせる人たちであるよりも、(そういうふりをするのもやめて)

好奇心と、希望と、勇気のある人たちであれますように。 アーメン

(ケイト・ボウラーのインスタグラムより中村佐知訳) 」

http://rhythmsofgrace.blog.jp/archives/49535961.html より。

[xii] みことばや神学の知識を学ぶことも大事で有用です。しかし、その根本には、自分自身がイエスから戴いた恵み、目を開かれた体験があるはずです。その小さくとも確かな喜びを、幼子のように証しすることこそ、人間のどんな権威をも揺さぶるほどの体験なのですから。
「ある大学教授が一人の無学な救世軍人にむかい、「君は、キリストがいつ生まれた人だか、知っているか」と尋ねると、「知りませぬ」と答えた。「それではどこの国でか」と問うと、また「知りませぬ」といった。「彼を生んだ母の名は」、「知りませぬ」。「父の名は」、「知りませぬ」。「どんなふうに生まれられたか」、「知りませぬ」。「いくつまで生きられたか」、「知りませぬ」。「それでは君は、キリストについて何を知っているのか」と問うと、「何にも知りませんけれども、ただわたくしは、前には大酒飲みで、仕方のないやくざ者でありましたが、キリストを信仰して後の今は、心を入れかえられ、堅気で、しあわせな世渡りができるようになった。そのことだけを知っておりまする」と、答えたそうである。これはブース大将(ウィリアム)が、好んで人に語られた物語である。わたくしどももまた、少なくとも今現にイしエスによって、全き救いを楽しんでいるという、この一つのことを知って、大胆にそれを世に証言し得るようでありたいと思う。(二四、二五)」、山室軍平『民衆の聖書 ヨハネ伝』115~116ページ