ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2023/8/27 ヨハネの福音書10章7-11節「わたしは門です」交読29 詩121篇

10章に入り、イエスが羊とその牧者(羊飼い)に譬える言葉が続きます。18節までにイエスが7節と9節で

「わたしは羊たちの門です」
「わたしは門です」

と言われ、11節と14節で

「わたしは良い牧者です」

と言われます。今までも「わたしがいのちのパンです」「世の光です」とイエスは言われました。ヨハネが繰り返す大事なパターンでした[i]。そこで二回に分け、今日は前半

「わたしは羊たちの門です」

に焦点を当てます。

この言葉は、九章から続く、当時の指導者、パリサイ人たちへの挑戦です。1~6節では、乱暴な羊泥棒・羊強盗と、羊を名前で呼び、羊もその声を知ってついていく牧者の対比が語られました。彼らは民を養うよりも、押さえつけ、追い出す、盗人・強盗と変わりませんでした。この比喩を聞いても分からなかったため語られたのが、この「わたしは羊たちの門」の言葉です。イエスは再び言われます。

 7…「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。

5章2節に「羊の門」という言葉が出てきます。これは「羊の(門)」という一つの言葉で、エルサレムに実際にあった古い門の一つで、神殿の生贄に捧げる羊たちを連れて入ることから「羊の門」と呼ばれました[ii]。ですから羊はここから入れば、出てくることはない門です。今日の10章7節は、「羊たち」の「門」という二語で、

「羊たちの囲い(1節)」

に一か所設けられている、羊たちのための門です。囲いは、石造りで高く盛り上げ、上には茨が敷かれて、盗人[iii]や強盗[iv]、狼などの外敵の侵入を防いでいます。羊はずっと囲いの中にいるわけではなく、3節4節の通り、牧者は羊を外に連れ出して、外の草を食べ水を飲ませます。そして夕方には戻って来て、朝に出た囲いの出口からまた中に入るのです。9節に

「出たり入ったり」

とある通りです。牧者は、羊たちをみな中に入れると、門を閉めます。どうやって閉めるかというと、入り口のところに自分が座って、自分が門になるのです。泥棒や狼が入らないよう、自分の体を門として閉じます。それを交代でするのが羊飼いだそうです。そして朝になれば、羊飼いは真っ先に起きて、羊たちをまた外に連れ出します。羊飼いよりも早く、夜暗いうちに来るのは泥棒です。

わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。」

と言えるのが牧者なのです[v]。自らの体をもって、善からぬ輩が入って来ない囲いの一部ともなり、羊たちが囲いと外を出入りする生活の門となる――それが牧者です。エルサレムの城壁にある「羊門」に比べれば、遥かに小さく、見栄えもしない、羊の囲いの門。そこにイエスは自らを準えるのです[vi]

 9わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。…

この言葉の背景を忘れないでください。パリサイ人と呼ばれる宗教の権威、指導者たちが、民の信仰や救いを掌握し、神の国の門番を自称していました。罪を定義し、掟に従わせ、言い逆らう人は追放していました。でもその門から追い出された人、文字通り「破門」された人の傍らに来たイエスが言われるのです。

「わたしは門です。だれでも…」

障害のある者、説明のつかない問題を抱えた者、自分は無力で何の利益ももたらせないと思う者、どんなハンディがあろうとも

「…だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」

と言われます。ある日本人の説教者は

「わたし門です」

と訳した方が良い、と言います[vii]。様々なものが羊を惑わして、虐げ、誘う声に対して、イエスが羊の側に立ち「わたしが門です」と招かれるのです。そして、その門は一度入ったら出て来られない、追い出されるなら滅びだ、という門ではありません[viii]

…また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

門を出て囲いの外に行っても大丈夫、ということではないです。交読した詩篇121篇も、

詩篇121:8はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。[ix]

行くにも帰るにも。出たり入ったりして。どちらも聖書がよく使う、いつも、という言い回しです[x]。夜は羊の囲いで、昼は外で牧草を探す、その繰り返しの毎日、普通の生活で必ず通る門となって、イエスは羊たちを(私たちを)支えて守ってくださる。囲いの中に入るから救われるのではなく、イエスが門となってくださるから救われるのです。「囲い」の中が「救い」で、そのための門がイエス、という絵ではないのです[xi]。先の詩篇121篇も歌っていました。主が、夜もまどろむことなく眠らず、守ってくださる、と。それが聖書が歌う「救い」です。

9節に

「牧草を見つけ」

とあります。スイスのような牧草地と違い、イスラエルは岩地、荒れた枯れ野です。緑を見つけるのは至難で、牧者が見つけなければなりません。詩篇23篇が言うような

「緑の牧場」

と言えるほどの牧草地は決して自然にはなく、牧者が荒れ地を切り開いて、羊のために作り替えた場に他なりません[xii]。門の向こうにせよこちらにせよ、私たちの目に映るのは殺伐とした世界です。けれどもそこに主は、牧草との出会いを備えておられます。ここまでして羊たちを愛する牧者を思うなら、羊よりも自分優先の盗人との差は一目瞭然です。

10盗人が来るのは、盗んだり[xiii]、殺したり[xiv]、滅ぼしたり[xv]するためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。[xvi]

盗人とは対照的に、イエスは羊たちがいのちを得るために、それも豊かに得るために来られました。イエスは人間の指導者の不正、腐敗を、厳しく批判するにも勝って、ご自身が徹底して、羊たちのいのちのため、豊かないのちのために行動した方なのです。それが次の、

11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

に展開します。門は門でも、傷のある羊は入れない門ではなく、羊のためにいのちを捨てるほどの羊飼いが、羊を守り、招き、安心させ、豊かに生かすため、門となってくださる。破れ口に座ってくださり、そこをもっと豊かないのちへの入り口としてくださる。そんな門なのです。

権力者が会堂から追い出し破門とした人にイエスは近づき、そこから始まる新しい人生を与えました。ホセア書2章15節で主は宣言されます。

「わたしは禍(アコル)の谷を望みの門とする。[xvii]

これも聖書で、神にしか語れない「門」の言葉です。
イスラエル人の先祖ヤコブは、初めて主から夢を見せられ、主がともにいると知った時、言います[xviii]

「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

それは、父を欺し、母に振り回され、兄を怒らせて、家を逃げ出した旅の夜でした。孤独と絶望と後悔の逃避行の場所で、神はヤコブに出会い、そこは恐れ多い神の家、「天の門」となったのです。そこでヤコブはその「門」をくぐって天に行ったのではありません。その後もヤコブは主がともにいてくださることを忘れた行動の方が多いようです。しかし、最後の臨終の床でヤコブは祈るのです。

「私の先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。」[xix]

「わたしは羊たちの門です」とは、一度その門をくぐればいい、一度キリスト教を信じることを求める言葉ではなく、生涯ずっと、行くにも帰るにも、日常の食事も寝ることも、牧者なる主の導きに信頼する、そういう歩みへの招きです。そして、他の誰でも、同じように牧者が慈しむ羊、イエスに招かれている人として締め出さないよう、私たちを招いているのです。

羊と牧者の関係を壊して忘れさせようとする現実があります。イエスの意に反して、門から締め出される羊がいるのも仕方ない、とされるのが人間の発想です。同時に、救いや幸せ、満ち足りた生活を送るための入り口が、あれこれと喧伝されています。宗教でなくとも、出世とか勝敗とか、健康とか美貌、成績や競争、大きな家や年収、何かにつけてそれが幸福の門、救いの神かのように思われています。私たちも「わたしが門です」と仰ったイエスを、「自分はもう信じたのだから」と片付けて、他のものに目移りしたり、今ここで主の養いが日常にも、どん底の時にもあることを忘れがちです。「わたしが門です」とは今日の私たちへの言葉です。

「慈しみ深い主よ。天から屈むようにして破れ口に座って自ら門となってくださるあなたを想います。門の内側にいる、と慢心した傲慢を悔い改め、むしろ、わたしが門ですと言われるあなたの慈しみに謙ります。そして主の備えたもう養いに、日々豊かに生かしてください。今から出ていくそれぞれの歩みも、導いてくださるのはあなたです。荒野にいのちのわざを見つけ、禍の谷を希望の門とするみわざに私たちを加えて、また来週、ここに戻って来させてください」

[i] エゴー・エイミーの三つ目。一つ目は6章35節「パンです」、二つ目が8章12節「世の光」。

[ii] 「羊の門」プロバティコス(羊に属する物)、(「羊たちの門」は、へー・シュラ・トーン・プロバトーン) 生け贄とする羊たちが入るための門。http://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_JZhr4C.pdf では、ネヘミヤ書3章のエルサレムの城壁再建で、最初に『羊の門』から工事が始まることから、エルサレムの再建の象徴だと述べています。ヨハネの福音書5章2節(エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。)、また、ネヘミヤ記3章1節(こうして大祭司エルヤシブは、その仲間の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、扉を取り付けた。そしてメアのやぐらのところまで聖別し、ハナンエルのやぐらにまで及んだ。)、32節( 角の二階の部屋と羊の門の間は、金細工人と商人たちが修復した。)、12章39節(エフライムの門の上を通り、エシャナの門を過ぎ、魚の門と、ハナンエルのやぐらと、ハ・メアのやぐらを過ぎて、羊の門まで進んだ。そして監視の門で立ち止まった。)

[iii] 「盗人」クレプトス マタイの福音書6章19~20節(自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。20自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。)、ルカの福音書12章33節(自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。)、39節(このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。)、ヨハネの福音書10章1節(「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。)、8節(わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。)、10節(盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。)、12章6節(彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。)、コリント人への手紙第一6章10節(盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。)、テサロニケ人への手紙第一5章2節(主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。)、4節(しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。)、ペテロの手紙第一4章15節(あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。)、ペテロの手紙第二3章10節(しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。)、ヨハネの黙示録3章3節(だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。)、16章15節(──見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人々に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである──)

[iv] 「強盗」レーステース マタイの福音書21章13節(そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」)、26章55節(また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。」、27章38節(そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。)、44節(イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。)、マルコの福音書11章17節(そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」)、14)48節(イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。)、15章27節(彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。)、ルカの福音書10章30節(イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。)、36節(この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」)、19章46節(彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」)、22章52節(それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。)、ヨハネの福音書10章1節(「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。)、8節(わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。)、18章40節(すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。)

[v] 8節を、歴史的な意味にとると、パリサイ人はもちろん、洗礼者ヨハネや旧約の預言者たちまで「盗人であり強盗です」という結論にもなりかねません。それは、3章11節や5章32~47節と矛盾します。この個所を、羊飼いの生活と結びつけることが、自然な理解になります。

[vi] しかし、Keenerはこのような背景と、ヨハネの主旨がどれほど結びついているかについては慎重です。

[vii] 加藤常昭『ヨハネによる福音書3』より。

[viii] 「救いの門」という意味での用法は、マタイ7:13-14(狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。)、25:10(そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。)、ルカ 13:24-25(「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。)などを参照。しかし、それらの意味も一つひとつ、丁寧に吟味してほしいことです。

[ix] 詩篇121篇全文:都上りの歌。私は山に向かって目を上げる。私の助けは どこから来るのか。2私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。3主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない。4見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。5主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。6昼も 日があなたを打つことはなく 夜も 月があなたを打つことはない。7主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる。8主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。

[x] 「出たり入ったり」Keener「行き来はおそらく移動の自由を表現し、「いつも」というセム語の方法を表しています。申命記 6章7節(これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。)、28章6節(あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。)、19節(あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる。)」、Ⅱ列王 19章27節およびイザヤ37章28節(おまえが座るのも、出て行くのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている。わたしに向かっていきり立つのも。)

[xi] 「日曜学校に通っていたとき、よくこんな歌を歌っていた。/ドアは一枚、たったの一枚。/それでも二つの面がある。/ぼくがいるのは内側だけど、君がいるのはどっち側。/この歌は、私たちの教会のあり方をよくとらえていた。私たちは自分のことを、真理を手にしている数少ない者と見ていた。多くのきまりや信条が、ドアの外側にいる人々と私たちを区別していた。自分の信仰が「外部の人々」のために貢献できるなど、考えたこともなかった。私の重要な任務は、彼らを正しく導き「ドアの内側」に入れることだった。しかし、いまの私はこう思っている。神の国は「ドアの外側」にいる人々のためにあり、それゆえにすべての人に注がれている神の愛をはっきりと表すのである、と。」フィリップ・ヤンシー『隠された恵み』247~248ページ。

[xii] 「神は、あなたの心を、あなたの身体を、そして何よりもあなたの魂を休ませてくださる。あなたを緑の牧場に導いてくださるのだ。緑の牧場は、ユダヤの地に自然に存在するものではなかった。ダビデが羊の番をしていたベツレヘムの周囲の丘は、青草が茂るような肥沃な場所ではなかった。今日でも、そこは白っぽく乾いている。ユダヤにある緑の牧場は、どれも羊飼いの働きによるものだ。羊飼いが岩だらけの荒れ地を切り開いたのだ。切り株を取り除き、やぶを焼き払う。水を引き、地を耕す。それを羊飼いは成し遂げたのである。それだから、ダビデが「主は私を緑の牧場に伏させ」と言うのは、「主の働きによって完成した場所に伏させ」という意味なのだ。イエスは大釘に指し貫かれた手で、魂の牧場を作られた。棘だらけの非難の下草を抜き、罪の大岩を梃子で動かされた。そのあとに恵みの種を蒔かれ、憐れみの池を掘られたのである。主はぼくたちにここに来るようにと招いておられる。あなたは想像できるだろうか。そうした仕事を成し遂げた羊飼いが、柔らかな青草の中に憩う自分の羊たちに目をやったときに、心にあふれる満ち足りた喜びを――。あなたは想像できるかな?ぼくたちが同じように緑の牧場に憩うとき、神が満足感を抱かれるのを。神の牧場は、ぼくたちへの神の贈り物だ。それはあなたが作った牧場ではない。あなた当然与えられるべき牧場でもない。それは神からの贈り物なのだ。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ人への手紙2章8節)」、マックス・ルケード『心の重荷に別れを告げて 詩篇23篇の約束』(佐藤知津子訳、いのちのことば社、2003年)、73~74ページ。また、ブリッジ・フォー・ピース「羊飼いと羊 -前編-」レベッカ・J・ブリマー(BFP国際会長)https://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=132 、

[xiii] 盗むクレプトー(<盗人クレプトス) ここのみ。

[xiv] 殺すスオー ここのみ。

[xv] 滅ぼすアポッリュミ ヨハネに12回。3章16節(神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。)、6章12節(彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」)、27節(なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」)、39節(わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。)、10章10節(盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。)、28節(わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。)、11章50節(一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」)、12章25節(自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。)、17章12節(彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。))、18章9節(これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。)、14節(カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。)

[xvi] 泥棒は窓から侵入するか(ヨエル書 2章9節:町に襲いかかり、城壁の上を走り、家々によじ登り、盗人のように窓から入り込む。)、壁を突き破ることで知られていました(マタイ 6章19~20節、出エジプト記 22章2節(もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、 打った者に血の責任はない。)

[xvii] ホセア書2章15節:わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように。

[xviii] 創世記28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

[xix] 創世記48章15節。