ようこそ。池戸キリスト教会へ。

2023/7/9 ヨハネの福音書8章48-59節「アブラハムより偉大な」交読文25詩篇103篇

57…「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」

とあると、イエスは五十近かったと思うでしょうか。聖書には三十歳頃とあります。ルカの福音書3章23節です[i]。春の過越祭が四回程あるので[ii]、三年を跨いで、十字架は33歳頃でしょう。五十歳とはレビ人の定年で[iii]、社会的な役職にはそれからつくのが通例でした。50どころか30そこそこ。常識的には青二才です。彼らの反発は、彼らがひどく頑固で悪意があった、というより、当然と言えば当然です。けれどもイエスは怖じ気づかず、淡々と応じるのです[iv]

48ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」

サマリア人で悪霊に憑かれている、というのは、ユダヤ人にとっては最悪の侮辱です。もっともイエスは、4章でも見たようにサマリア人にも分け隔てなく友となり、悪霊に憑かれた多くの人にも寄り添った方です[v]。「サマリア人で悪霊付き」と言われても傷ついたりカチンと来もしなかったでしょう。ただ、そんな風にしか言えない彼らの惨めさを悲しまれたでしょう。イエスご自身は、ひたすら、御父との関係の中に深く信頼し、委ね切っていました。

50わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。

自分の栄光を自分では求めない。なぜなら自分の栄光を求める方、すべてを明るみにされる方がいるから…。イエスのこの言葉は、私たちのすばらしいお手本です。私たちもそうです。神が私の栄光を求めてくださっていることにお任せしたらいいのです。何といっても、イエスは私たちに豊かないのちを与えてくださる方です。この言葉に留まればいいのです。

51まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。

この「見る」は「注視する、気を奪われる」の意味です[vi]。死に目を奪われて、ビクビクすることがなくなる、死の時にも死に囚われずその先を見ていける。イエスのことばを私たちが守る(心を留める)なら、イエスのことばが私たちを守り、死を恐れなくなります。しかし、

52ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。…

こう言って突っかかり、アブラハムを持ち出しての会話が58節まで雪崩れ込んでいきます。アブラハムは33節でも触れた人で、創世記11章に登場する、紀元前二千年頃の人です。175歳という非常な長寿でしたが[vii]、それでも最後は死にました。そう持ち出す人々に対してイエスは54節以下を語り、父なる神との深い関係を語り、最後に爆弾発言でした。

58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

アブラハムが生まれる前からいた、ではありません。それならまだしも狂人扱いで済んだでしょう。過去形でなく現在形で「わたしはある」と言います。これは神の自己宣言です。出エジプト記3章で神が「わたしは「わたしはある」である」と名乗りました。今も昔もこれからもずっと「わたしはある/わたしはいる」と宣言されたその名で、イエス「わたしは「わたしはある」なのです」と言います。これは聞き捨てならないと「59すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。…」石打は、神への冒涜や甚だしい重罪に対する刑罰です。冗談でも言えない言葉、しかしもしそれが本当なら…とイエスの言葉をもう一度真剣に読み直さずにはおれなくなる。これが、長い七章八章の末の余韻です。

ところでイエスは御父との特別な関係を語った末にこう言われていました。

56あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」

一体、何のことでしょう。そんな言及は聖書にありませんし、アブラハムが「喜んだ」自体ひと言もありません。最も近いのは、授かったひとり子に「笑い」の意の「イサク」と名付けたことです。イサクの誕生は、神のひとり子イエスに通じた、ということでしょうか。更にその後、イサクを捧げよと命じられた時、

「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」

と言ったのがイエスのことだったのでしょうか[viii]。あるいは、そのイサクの子孫からすべての国々が祝福されるとの約束でしょうか[ix]。新約聖書へブル人への手紙11章は旧約の信仰者たちを語ります。アブラハムまでを述べた上で、こう言います。

13これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

と言います。アブラハムが夢か幻でハッキリとイエスの来る将来を予見していたというよりも、アブラハムや旧約の人物たちの心に兆(きざ)していた信仰は、希望の信仰だった、それはやがて来るイエスを指していた、ということでしょう[x]。その希望はアブラハムにとって「大いに喜んで」「喜んで」と重ねられるほどの喜びでした。イエスが「わたしはある」のお方、神であるという信仰は、そのイエスの日を見ることを喜ぶこと、それも大いに喜ぶことに直結します[xi]

石を握ってイエスに投げようとした人々を、無知だ傲慢だとは裁けません。教会も、イエスと父との関係や神であることを整理して、三位一体や二性一人格の教理に行き着くまで四百年かかったのです[xii]。アブラハムも理解はしていなかったでしょう。それでもアブラハムは喜びを戴いていました。私たちも、不十分な理解を弁えつつ、神に喜びを置く。それが信仰です。

私たちはウェストミンスター小教理問答で

「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」

と告白します[xiii]。神を喜ぶ――神が下さる恵みや祝福にまして神ご自身を、永遠に、心から喜ぶ。それは、神ご自身が私たちを喜んでおられるからです。わたしの栄光はわたしより父なる神が求めて、与えてくださるから、自分で自分の栄光を求めなくていい――そう信頼しきったイエスのことばに留まって、自分の価値や輝きを私以上に求め、尊ばれ、私を喜ばれる神を、私も喜ぶ。この方の日を喜ぶ。そういう思いや生き方に変えられることも、イエスが「わたしはある」であるお方であることと、切っても切り離せない私たちの告白です。最後に、

59…しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

ふっと姿を消し、消えるように身を隠したのでしょうか。そんな人間離れした力でご自分を守ることは、イエスはなさいませんでした。ここでも、全力で逃げて身を隠し、宮から出たのでしょう。宮で礼拝されるべき方、永遠に栄光を称えられ、どんな不思議も出来るお方が、若すぎると鼻で笑われて、石打ちで殺されかけて、何とかして身を隠すような、そんな姿で現れています[xiv]。それは人が考えるような栄光や立派さとは全く違う、十字架の栄光、罪の赦しを与える栄光、仕え、愛する栄光、他者を生かす栄光です。

アブラハムからイエスまで二千年、そしてそれから私たちまで更に二千年が経ちます。その四千年の真ん中に、たった三十年程のイエスの生涯。それは、その遥か昔から今も将来まで「わたしはある」と言われる方です。何千年経って多くが変化しても、人は悩み、間違い、死ぬ人間です。その小さな私たち一人に、罪の完全な赦しを与えるため、死よりも大きな喜びを見つめさせるため、いえ、私たちの喜びそのものとなるため、そして、この方がしてくださったように私たちも互いを愛し、仕え、互いを喜ぶため、イエスは人となってくださいました。この方が今も「わたしはある」なのです。

「主よ、あなたはアブラハムの前からおられ、今も私たちとともにいます。すべての喜びはあなたにあり、これからもあなたがともにいてくださいます。そしてあなたは私たちを喜び、愛して、ご自身が十字架にまで卑しめられることさえ厭いませんでした。あなたを喜びます。あなたの日を喜びます。あなたの約束の成就を待ち望み、時に待ちきれず目を奪われるとしても、あなたの栄光と人の栄光との回復を切に願って、今ここでの歩みを整え、導いてください」

[i] イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で…。

[ii] ヨハネの福音書2章13節(さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。)、5章1節(その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。)もおそらく過越の祭りで二回目、そして6章4節(ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。)が三回目、そして、イエスが十字架にかかった時の過越祭が11章55節(さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上って来た。)、56節、12章1節(さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。)、12節(その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、)、20節(さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。)、13章1節(さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。)で、これが四回目です。

[iii] 民数記4章3節、23節、30節、35節、39節、43節、47節、8章25節(しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。)

[iv] 「凛々しいイエスに、人々が不必要に反発する」というより、おおよそ指導者らしからぬみすぼらしい青二才のイエスが、並み居る年配者たちの自信や脅しにも怯むことなく、堂々と語る、という構図なのです。有力者、名士たちに囲まれて、笑われ誤解され凄まれても、それを躱し、臆さず、淡々とご自分を証しするイエスのお姿に、私たちは励まされるのです。

[v] 「敬う」ティマオー、ヨハネで5章23節、8章49節、12章26節で、6回。「卑しめる」はその否定形のアティマゾー。ヨハネでここのみ。そしてその、人に対する分け隔てのない態度そのものが、父なる神だけを敬う心の現れでした。

[vi] ギリシャ語、ゲウオマイ。

[vii] 創世記12章、25章。

[viii] 創世記22章8節。

[ix] 創世記22章17-18節:確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

[x] 神がアブラハムを選んでくださったこと、希望を与え、生きる意味や役割、祝福、妻サラとの関係を(ひどく拗(こじ)れながらも修復してくださったこと)、何より、主ご自身との契約を下さったこと…そうした喜びは小さく、決して完全なものではありませんでしたが、はるか遠くに用意されている約束の本体のしるしだったのです。

[xi] 「喜ぶカイロー(名詞カラ)」もヨハネが繰り返す言葉です。 3章29節(花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びカラに満ちあふれています。)、4章36節(すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。)、8章56節(あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」)、11章15節(あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」)、14章28節(『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。)、15章11節(わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びカラで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。)、16章20-22節(まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びカラに変わります。21女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びカラのために、その激しい痛みをもう覚えていません。22あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びカラに満たされます。その喜びカラをあなたがたから奪い去る者はありません。)、24節(今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びカラが満ちあふれるようになるためです。)、17章13節(わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びカラが彼らのうちに満ちあふれるためです。)、19章3節(彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。)、20章20節(こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。)。因みに、6章21節(それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。)はセロー;8章29節(わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」)はアレスタ。

[xii] 325年、第一回ニカイア公会議において、三位一体は「ニカイア信条」にまとめられ、更に381年の「ニカイア・コンスタンチノーポリス信条」が今日まで世界共通の三位一体の告白となります。二性一人格は、451年のカルケドン信条でまとめられました。三位一体も二性一人格も、人の理性を超えた神秘ですし、分かったつもりでも私たちはイエスを持ち上げ理想化しています。田舎者や年下、貧しい身なりとは到底思わないのです。

[xiii] イエスは「最も大いなる戒め」を、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」と言われました。「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶ」とは、この二つで一つの戒めの言いかえに他なりません。また、「神を喜ぶ」は「神を愛する」の言い換えです。愛とは相手を喜ぶことです。私が喜ばれている、ということが愛なのです。

[xiv] この半年後の過越の祭りでイエスは捕まり、石打ちではなく十字架にかけられます。しかしその死の三日目に神はイエスを復活させ、イエスの言葉が本当であることを示し、イエスの栄光を現されます。その直前にイエスと父のやりとりがありました。「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」(ヨハネの福音書12章28節)