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2023/7/30 ヨハネの福音書9章18-23節「あれに聞いてください」

ヨハネ9章は生まれつき目の見えない人との出会いから始まります。イエスは彼の目を癒して見えるようにしましたが、人々も宗教的権威のパリサイ人たちも彼の癒しを受け止めかねます。そこで、遂に彼の両親を召喚して突破口を見出そうとした、というのが今日の件(くだり)です。

18ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず[i]、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」

親に説明させて、何とかして、見えない目を見えるようにしたイエスは神から来た方だ、とは言わないで済むような抜け道を捜そうとした、ということでしょうか。そんな無茶な思惑で呼び出された両親は、どんな思いがしたでしょう。きっと針の筵に座らされた心地でしょう。

20そこで両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。21しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」

こう答えた両親の答えは、至極真っ当な答にも聞こえますし、冷たく突き放した言葉のようにも聞こえます。今日の説教題「あれに聞いてください」は、この21節の以前の訳文です。新改訳2017が「本人に聞いてください」、23節で「息子に聞いてください」と言うのを以前は「あれに聞いてください」としていました[ii]。直訳は確かにそうです。でもそう訳してしまう時の冷たい日本語の響きは、そこまで言えるわけではない。だから「本人に…息子に」と柔らかめに訳したのでしょう。でも「あれに」と突き放したようにも訳せる言葉ではあるのです。

同じことはこの両親の発言そのものに言えます。この発言には、嘘はありません。自分たちの息子です、盲目で生まれたのです、とはごまかさずに証言しています。どうして見えているのか説明できないのも本当です。本人に聞いてください、と言うのももっともです。本人が聞かれているのに、親が代わって全部答えようとして、それも本人の意にそわない答えでややこしくする、という親御さんがいます。それよりははるかに健全です。しかしヨハネは言います。

22彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。23そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。

両親の発言には、ユダヤ人への恐れ、会堂から追放されることへの怯えがあって、ハッキリという事を控えて、もう大人なんだから息子本人に聞いてくれ(あれに聞いてくれ)と言ったのだ。発言の言葉尻よりも、その発言の意図、表向きの言葉の背後にある感情を大事にします。

ところでもう一つ問題があります。それは果たして本当にこの時、イエスの十字架の半年前の時点でユダヤ人が、イエスをキリスト――神からのメシアだ――と告白する者がいれば会堂から追放すると決めたりしたのか、という疑問です[iii]。ユダヤ人が会堂から追放されるとは、村八分、社会的な抹殺、異邦人扱いということです。他の福音書、マタイ、マルコ、ルカではそんな雰囲気はまだありません。将来、会堂から追放される、という予告はマタイに何度かありますが、まだ将来の話でした[iv]。その三つの福音書より後に書かれたヨハネの福音書の時代、一世紀の終わり頃には事情は厳しくなっていました。キリスト者が増え、ユダヤ民族がユダヤの地から追われて、ユダヤ人はキリスト者を嫌悪しました。同胞がイエスをキリストと告白すれば、会堂から追放され、ユダヤ人社会の一員と見なされない。ヨハネの福音書の朗読を最初に聞いた中にユダヤ人がいれば、ユダヤ社会から追放された人々も少なからずいたのです。

ですからこの22節は、イエスの時代の事情、というより、ヨハネの読者の事情に引き寄せた記述かもしれません。そして、ヨハネの読者はこの言葉に自分たちが置かれた事情を重ねて聞いたでしょう。それは、自分がイエスをキリスト、告白して会堂から追放されたとか、その瀬戸際で悩んでいる場合もあれば、自分でなく家族が、会堂から追放されること、生活を失うこと、多くが変わることを恐れて悩んで姿です。家族から、聞いたこともない冷たい言葉を吐かれ、「あれ」呼ばわりされ、突き放す態度を取られた体験があったでしょう。

それは家族が冷たいから、頑なだから、罪深いから、ではありません。恐れがあるからです。イエスをキリストと信じる幸いよりも、失う大きさに悩ます力があるからです。「そんなことをしたら分かってるだろうな、会堂から追放し、社会から爪弾きになり、あれもこれも…」と思わされているからです。そのため、物凄い葛藤がありながらも、恐れによって、わが子を突き放すような決断に走ってしまう[v]。迫害者や暴君は、様々な手段を使って、人の身近な関係につけ込みます。卑怯な手で脅し、大事な何かを人質にとって、銃を突きつけます。最も大切なもの、言い換えれば弱みにつけ込むのです。そのやり口は狡猾で、容赦なく、抵抗を貫けば殺されるでしょう。その圧倒的な手口に、恐れに駆られて、息子に寄り添えなかった未信者の両親を、また誰かを、さばくこと、責めることなど誰にも出来ないのではありませんか。

他にもヨハネは何度も、弟子たちが恐れた、信じたユダヤ人も恐れた、と書きます。恐れに囚われて、踏み出せない人の姿を繰り返します[vi]。恐れることがダメだと責めることはありません。ただ一度だけ、嵐の湖で恐れる弟子(恐れて当然です!)のところに、イエスが来られて

「わたしだ、恐れることはない」(6章20節)

と仰る一箇所です。そして、20章19節。イエスが復活した後、弟子たちはユダヤ人を恐れて閉じこもっています。恐れに囚われていました。その彼らのところに、イエスが現れて言うのです。

「平安があなたがたにあるように」[vii]

恐れるな、と責めても恐れは消えるどころか増えるものでしょう。恐れて、間違った行動を取り、取り返しのつかない傷を持つこともある。その痛みを知るイエスが、来てくださる。その真ん中に立って、「平安があるように(シャローム)」と言われる。恐れるなという道徳ではなく、イエスご自身が来られること、来てくださる存在によって、恐れる私たちを力づけ、立ち上がらせてくださいます。そして、イエスは恐れる自分たちのただ中でも働いておられます。

この両親が、会堂からの追放を避けるために、息子の側に立たなかったのは悲しいことです。しかし彼らの発言は、精一杯、境界線を引いた、慎重で賢明な発言でもあります。少なくとも、これはパリサイ人たち当局の願ったような答弁とはなりませんでした。両親は彼らに阿(おもね)って、忖度(そんたく)した発言はしませんでした。彼らの発言が結果的にパリサイ人を益し、息子を不利にすることはなく、この時間は無駄骨に終わり、次の24節でもう一度本人を呼びつけるのです。

お気づきでしょう、今日の箇所にイエスは登場しません。いえ8節から34節まで、イエスは舞台袖に隠れたままです。しかし見えなくてもイエスは働いています。ここにおられます。そうでなければ、恐れないことなど無理です。今でも世界には迫害や人権を無視する国や地域があります。日本には同調圧力という恐れが強くあります。それらは、キリスト教信仰のみならず、人と人との深い関係、最も基本で喜ばしい信頼さえ壊すような恐れです。その中で私たちは、私たちの所に来てくださったイエスを知っています。恐れではなく、イエスへの信頼を持てます。この出来事の背後にもイエスがおられます。両親が

「もう大人ですから、あれに聞いてください」

と言った言葉の背後にもイエスはいました。親の責任転嫁や突き放す恐れだけでなく、彼を親離れさせ、独り立ちさせ、生まれつきの障害者・罪人、ではなく、初めて一人前の大人として扱われる言葉ともなったでしょう。そうして神のわざが現されたのです。

「主よ、恐れさせる強く、根深い力が、外に内にあります。そして、あなたはそのすべてよりも強く、真実で、良いお方です。どんな悪意よりも強く、私たちの後悔をも癒し、すべての過去を贖い、恐れて縮こまっている者をこそ歌わせてくださる神です。どうぞ、あなたが見えない時も、ともにいて、私たちを強め、私たちを通して、周りの人々を恐れから解き放ってください。私たちを主にある大人として、語るべき声を、聞かれるべき歌を持つ者としてください」

ジョン・エヴェレット・ミレイ「両親の家のキリスト」 イエスもマリアとヨセフにとっては、親離れ・子離れしていく存在でした。

https://sononism.com/christ-house-parents

[i] 18節「信じず」アオリスト時制。「ずっと信じなかった」というよりも、17節の彼の発言を一蹴した、ということか。

[ii] 新改訳第三版:21しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」…23そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。

[iii] 「イエスをキリストと告白する」こことⅠヨハネ2章22節(偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。)のみ。

[iv] マタイ10章16節以下(いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。17人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。18また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。19人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。20話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。21兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。)、24章9~14節(そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。10そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。11また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。12不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。13しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。14御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。)、など。

[v] また国家や政府が教会を迫害する時、それは単純にキリスト教を憎むからというよりも、国民を支配するための手段として、見せしめとか口実に「キリスト教は危険」という大義名分を掲げることもあります。利用するための方便に過ぎないこともままあります。

[vi] ユダヤ人を恐れて 7章13節(しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。)、9章22節、12章42節(しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。)、19章38節(その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。)、20章19節[後述]。

[vii] ヨハネの福音書20章19節:その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」