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2023/7/2 ヨハネの福音書8章39-47節「誰の子どもとして生きるか」

前回32節の有名な「真理はあなたがたを自由にします。」を聞きました。しかしそれを聞いた人々は「私たちはアブラハムの子孫だ」、心外だ、と食って掛かったのでした。その話が続いて、今日の39節以下でもヒートアップし、ドキッとする言葉になったのを聴きました。

39彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。40ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。41あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」…

創世記12章で、神がご自分の民のため、最初に選ばれたのがアブラハムです。確かにこの彼らはそのアブラハムの子どもです。しかしそれを誇るばかりで、神の子イエスを快く迎えようとしません。アブラハムはかつて、三人の御使いを、それとは知らずに旅人としてもてなしました(創世記18章)。それがアブラハムでした。そのアブラハムの子どもたちだと胸を張りながら、イエスに対する態度は頑なで、殺意さえ抱き始めている。それなら、いくらアブラハムが父でも何の意味もない。こう言われたユダヤ人たちは、更に憤慨して言います。

41…すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」

イスラエル民族が神を「私たちの父」と呼ぶことは、旧約聖書にもたびたびありました[i]。しかし、これもイエスが問う、実際の自分の生き方との矛盾を一層浮き立たせるだけです。

42イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。

「神が父だ」というなら、神から来たわたしを愛するはず。系図とか歴史を誇るより、あなたの生き方は神の子どもらしい生き方か、と見つめ直させます。

43あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。

そして、今日のショッキングな言い方が出てきますね。

44あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。…

こんな事を言われたら…とクラクラしそうです。まずは落ち着いて、悪魔とはどんな存在かを覚えましょう。

悪魔(サタン)は聖書に出てきますが、不健全で不必要な好奇心を持たせないためでしょう、あまり詳しく描写や説明はしていません。どういう経緯で悪魔に成り下がった堕天使だ、というような物語も書いていません。聖書は神の存在を証明しないと同様、悪魔の存在についても説明はせず、最低限のこと、つまり悪魔は決して神に対抗できる「悪の神」ではなく、神に逆らうけれども、神に決して勝つことは出来ない悪しき霊として描くだけです。それは創世記3章で、エデンの園に突然「蛇」として現れました。ここに掛かれている通り、アダムとエバに死を持ち込んだ「人殺し」であり、偽りで二人を唆した「偽り者また偽りの父」です[ii]

…悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」

人殺しとか偽りという言葉はこの8章に1、2回出てくるだけです[iii]。その反対のいのちや真理をヨハネがずっと語って来ました。神の子イエスこそいのちであり真理であって、イエスに繋がることこそ神に作られた人間の唯一の、そして豊かないのちです。イエスが回復してくださる、神を信頼し礼拝し従う交わりこそ、人のいのちです。

しかし、最初のエデンの園に蛇が現れて、人を唆し、神に従うよりも、神を疑い、不安を掻き立て、不信を抱かせました。全幅の信頼を置けるお方である神を信じる関係を断ち切らせました。いのちが神との交わりでなく、神から離れて自分で生きることだし、それが出来ると思わせました。それこそ悪魔が吹き込んだ偽りであり、その嘘によって全人類を殺したのです[iv]

あれ以来、人は皆、悪魔の嘘を信じています。聖であり恵み深い神を愛して信頼するよりも、神を疑い、人も疑い、妬んだり蔑んだり、敵か味方か、目上か目下か、不信感で見てしまう。「初めから人殺し」の悪魔の願う通り、交わりのいのちとは真逆の、自慢とか妬みや裁き、孤独を心の奥底に秘めているのが、アダム以来すべての人間なのです[v]。イエスに聞き従えないし、みことばも分からないのです。

45しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。

先日、中高科で十戒の第九戒「偽りの証言をしてはならない」を学びました。ウェストミンスター小教理問答77と78ではこれを

「人と人との間の真実と、私たち自身および隣人の名声を維持し、促進すること」

を求めていると解説します。事実を語るだけでなく、自分や隣人の名声を傷つける一切のことは禁じられている[vi]。それは神がどんな人も、尊い存在として回復してくださり、私たちが互いにどの人の名声も配慮させるお方だから、という聖書理解があります[vii]。そのために神の子イエスが、犠牲を惜しまずに低く卑しくなり、十字架の死さえ厭われず、その死から復活しました。その深く一方的な憐れみを離れたら、すべては嘘なのです。

かつてアブラハムが、高齢で子どももおらず、失敗だらけの彼が、神の民の父として選ばれたのも、神である主が人の相応しさや誇りに先んじて、人間を愛し、祝福してくださることの表れでした。それを忘れて、アブラハムの子だと誇り、その誇りがイエスの言葉を受け入れることを邪魔してしまう。この矛盾に、イエスは容赦ない強い言葉で挑まれます。

しかしそれは、「お前たちは悪魔の子だから救いようがない」と見捨てて呪う言葉ではありません。人は誰も生まれながらの心ではイエスを受け入れることが出来ない、そうこの福音書は最初から言っていました[viii]。ただ神が私たちを新しくし、イエスを受け入れさせてくださるのです。私や誰かが信仰を持っているのは、親のおかげや育ちがいいからではなく、主の恵みです。また、どんなに頑固で人が「悪魔の子」と見捨てた人も、主は愛して、信仰を持たせてくださるのです。生まれの良さや自分の意志ではなく、ただ、神ご自身の「産みの苦しみ」に与るのです[ix]

『悪魔の手紙』という名作があります。C・S・ルイスが書いたユニークな創作物で、悪魔のやり口から逆説的に、信仰を教えてくれます[x]。悪魔の人間理解についても、神の御心についても、目から鱗が落ちます。様々な手口で悪魔は、キリスト者をも神の愛から引き離して、自分のプライドや不安に付け入ている[xi]。その手紙が本物に思えるぐらい、私たちはサタンに騙されやすい者です。だからこそイエスは私たちを教えてくださいます。

神の恵みではないものに慢心していないか。

あなたはどう生きているか。

何があなたの欲求になっているか。

それは悪魔も喜ぶようなものではないか。

それが本当にあなたの願っていることか。

時には厳しいほどの問いかけで、私たちの今を炙(あぶ)り出されます。しかしそれは私たちを呪い、断罪する言葉ではありません。招きです。恵みに立ち帰ること、みことばに立ち戻って憩うこと、静まって深く思い巡らし、小さなことから始めさせてくださって、私たちに自由を下さる言葉です[xii]

今からパンと杯を戴きます。イエスが私たちのために血を流されました。私たちのうちに流れているどんな血より遙かに尊い恵みによって神の家族とされました。神の子どもとされ、お互いにも神の家族とされました。この恵みを小さく、薄めようとする偽りを自分の中に覚えつつ、だからこそ、パンと杯と、今日の御言葉をいただいて、恵みに養っていただくのです。

「主よ、今なお、私たちの中にある思い上がった偽りがあります。本当に、私たちがここにあるのは、私たちの何かではなく、只管あなたの恵みです。主イエスによる尊い贈り物です。恵みを忘れて頑なになる心を、どうぞ溶かしてください。真理であるあなたをますます知ることによって、素直に御言葉に聴き従わせてください。あなたの救いを告白する一人一人が、救われた喜びと感謝に生きますよう。只今からの聖餐式に、ひとりひとり与らせてください」

[i] 申命記32章6節(あなたがたはこのようにして主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。)、イザヤ書63章16節(まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。)、64章8節(しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。)

[ii] C・S・ルイスは『悪魔の手紙』の序文でこう書いています。「〈悪魔〉という言葉で、神に対立する力、そして神のように永古の時より自立自存する力を意味するのであれば、答えは確かに「否」であります。神以外に、創造されたことのない存在は皆無です。神には対立する物はありません。いかなる存在も、神の完全な害に真っ向から対立する〈完全な悪〉に到達することはできないでしょう。なぜなら、あらゆる種類の善きもの(知性、意志、記憶、気力、存在それ自体)を取り去ったとき、悪魔の存在は跡形もなく消え失せるからです。 ここで適切とされる問いは、私が悪魔の存在を信じているかどうかということです。私は信じています。つまり、私は天使たちの存在を信じており、天使たちのいくたりかが、自らの自由意思を乱用することで神の敵になり、またその当然の結果として、私たちの敵になってしまったのだと、私は信じています。私たちはこれらの天使たちを悪魔と呼んでもいいでしょう。これらの悪天使はその本性において善天使と異なる存在ではありません。だが悪天使の本性は堕落してしまったのです。悪人が善人に対立する存在であるのにすぎないように、<悪魔>は〈天使〉に対立する存在であるのです。悪魔たちの指導者ないし支配者たるサタンは神の敵対者ではなくて、大天使ミカエルの敵対者なのです。私がこのことを信じるというのも、私の信条の一部としてではなく、私の臆見の一つとして、という意味であります。この臆見が過ちであることが示されたとしても、私の信仰が荒廃に帰することはよもやないでしょう。」

[iii] 44節と8章55節。1章47節の「偽りがない」は、別のギリシャ語です。

[iv] Ⅰヨハネ3章8-12節:罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。…10このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。11互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。12カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

[v] ウェストミンスター大教理問答27「堕落は、人類にどのような悲惨をもたらしたか。 答 堕落は人類に、神との交わりの喪失と、神の憤りとのろいとをもたらした。それゆえに、わたしたちは生まれながらにして怒りの子、サタンの奴隷であり、この世と来世とにおけるすべての刑罰を、正当に受けるのである。」

[vi] ウェストミンスター小教理問答76「第九戒は、どれですか。答第九戒は、「汝、その隣人に対して偽りの証を立つるなかれ」です。」、問77「第九戒では、何が求められていますか。答第九戒は、人と人との間の真実と、私たち自身および隣人の名声を維持し、促進すること、特に証言を行うに際してを求めています。」、問18「第九戒では、何が禁じられていますか。 答 第九戒は、真実をゆがめたり、あるいは、私たち自身や隣人の名声を傷つける一切のことを禁じています。」

 

[vii] ウェストミンスター小教理問答の同箇所の証拠聖句の一つは、詩篇15篇3節(舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人。)です。

[viii] ヨハネの福音書1章11~13節:この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

[ix] ヨハネの福音書3章3~21節:イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」10イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。11まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。12わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。19そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。20悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。21しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

[x] C・S・ルイス『悪魔の手紙』、中村妙子訳、平凡社ライブラリー、2006年。また、『C・S・ルイス宗教著作集1 悪魔の手紙 付・悪魔の演説』(蜂谷昭雄・森安綾共訳、新教出版社、1978年)、『C・S・ルイス著作集1 不意なる歓び・悪魔の手紙』(山形和美・中村妙子共訳、すぐ書房、1996年)もあります。どちらも絶版中です。

[xi] ローマ人への手紙14章23節(しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。) 信仰(信頼)から出ないことはすべて罪です。信頼に値する神への信頼からでなく、恐れ・不信感から、また自己中心・欲望から動くことは、倫理的に罪なのです。ここにも、神への信頼から始まるという真実か、神も愛も信じず、疑いや「結局頼れるのは自分だけ」というサタンが吹き込んだ噓か、が現れています。

[xii]神から出た者でないからダメだ、ではなく、自分の実態を認めて、自由になることを切望し、そのために真理を熱心に学ぶこと、自惚れを捨てて、イエスによって自由にしていただくこと。自分はそんなに奴隷ではないとか、世界はこんなもんだという偽りを真理と取り違えて語る生き方を、変えて戴くこと。