2023/12/3待降節第一日曜・聖餐式 ヨハネの福音書12章20~26節「一粒の麦は」
24節の「一粒の麦」が「地に落ちて…死ぬなら、豊かな実を結びます。」という言葉、聖書に馴染みが薄い方でも聞いた言葉でしょうか。それが出て来るのがここです。もう十字架の最期が間近になった、都エルサレムに入った時でした[i]。
20さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人たち[ii]が何人かいた。
ユダヤ人たちからはあくまでも「異邦人」、自分たち選民以外の存在です[iii]。そのギリシア人が
21…ガリラヤのベツサイダ出身のピリポ〔ユダヤ人ですがギリシア風の名前なので話しやすかったのでしょうか〕のところに来て、「お願いします[iv]。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。」直訳「頼み続けた」
という熱心な態度で願ったのです。ギリシア人の面会希望なんて彼らには想定外。イエスに伝えて良いのか、一人では判断しかねたピリポは
22…行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
結局二人でイエスの元に行く、それぐらい非常識だったのです[v]。
23すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。24まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
ずっと「わたしの時はまだ来ていません」と言っていたイエスが[vi]、今
「時が来ました」
と遂に言われるのです。それはイエスが十字架に上げられる時です。まもなく引き渡され、いのちを捧げるのです。しかしイエスの目は、死の悲壮感や苦しみへの恐れにもまして、その向こうにある豊かな実を見ています。イエスの死は「豊かな実」、民族や国籍やあらゆる垣根を越えた人々の救い、一つ主の民として導かれる、豊かな実を結びます。今、思いもかけないギリシア人たちの来訪は、人の思いを超えたイエスの御業の象徴でした[vii]。彼らとは実際会ったかどうかは書かれていませんが[viii]、この台詞自体が彼らへの答です。イエスの死は、一粒の麦が地に落ちて、あたかも死者の埋葬のように土をかけられ、土の中で麦粒であることを止め、殻を破り、芽を出して多くの実を結ぶ、そのための死です。ユダヤの過越祭はユダヤ人のためで、ギリシア人や異邦人はそのお零れを期待できただけです。しかし、イエスは本当の過越の子羊としてすべての人のために死なれ、誰もが「私のためにイエスは死なれました」と告白し、ともに自分事として祝うことが出来るのです。そればかりではありません。
25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」
と言われます。「一粒の麦」とは、イエスだけのことではない、いのちの法則です。私たちは皆ひとりひとりが「一粒の麦」なのです。一粒の麦になる、なれではなく、誰もが「一粒の麦」のようないのちなのです。日本語でも漢字で「命」とかけば生物学的な生命力、死んだらなくなる命、ひらがなは「いのち」なら、全人格、死んでも残るようなその人らしさ、その人の物語、と区別するようです[ix]。この25節も最初の「自分のいのち」と「永遠のいのち」の言葉は違います。
「自分のいのち」は魂とか思い、いわば人が持っているいのちです。生物学的な命も自分らしさも含めます。これを「憎む」というのも価値がないとか悪なのではありません。愛するは一番とすること、二番以降にすることが「憎む」なのです[x]。
「永遠のいのち」といういのちは、いのちの豊かさ、喜びや自由、生き生きしたあり方、いのちの広がり、何よりイエスを信じる関係、愛され愛するつながりという「いのち」です。いわば「自分のいのち」は麦の殻で、胚芽を守る大事なものです。「永遠のいのち」は麦が蒔かれて芽を出して、やがて豊かに実を結ぶ、麦の本来秘めているいのちの実りそのもの。私たちは「自分のいのち」、自分が邪魔をして、神から与えられたいのち、喜び、つながりを失い、結局自分も損ねてしまうことがあります。殻に閉じこもらず、飛び出して、芽を出し、神が私に下さるいのち、自分を通して実らせようとする豊かな御業に至らせていただくのです。
ここで「一粒の麦になりなさい」と命じられてはいません。なる、なれません、ではなく、私たちは「一粒の麦」なのです。また自分のいのちを憎め、でないと永遠のいのちに至れないと命じてもいません[xi]。永遠のいのちは神がイエスによって私たちに与えてくださる一方的な贈り物です。御子イエスが与えられたので、信じる者が永遠のいのちを持てるのです。その神がご自分の最も大事な御子を与えたことで人は生かされています。
御子イエスが神の偉大さ、輝き、力を惜しみなく脱ぎ捨てて、小さくか細い赤ん坊となったことは、まさにイエスが「一粒の麦」だった姿です[xii]。その頂点が自分を守る服も尊厳も神の助けも、一切をはぎ取られた十字架です。そのイエスの、自分を与えた死によって生み出されたのが、ユダヤ人もギリシア人も、そして私たちも、罪赦され、永遠のいのちを戴いているのです。麦が蒔かれて、豊かな実を結び、その実がまた蒔かれて多くの麦を産む――神がイエスを与えて、私たちが生み出され、その私たちがまた自分を捧げて、豊かな実を結ぶ…それが神のいのちの業です。それが、
26わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。
と言われています。「わたしのいるところ」、それはご自分を与えたイエスの道、仕える道、「一粒の麦」として生きる道です。そこにいる、これこそ私たちが戴いたいのちだと弁えて、ご自分を与えたイエスについて行く、これがここでの命じられていることなのです。
「自分を守ってくれる/これがなかったら生きていけない」と握りしめる様々なもの、「私はこういう自分だ」と考えているもの[xiii]、見える自分、見られたい自分[xiv]…それは麦の殻で、やがて朽ちるでしょう。イエスについていく上で、私たちはそうした多くを脱ぎ捨てます。そうして残る素の自分、何もないように思えた素の私こそ、イエスは言います。
「父はその人を重んじてくださいます(大切に・敬ってくださる[xv])」。
そういう私たちが与る、神にともに重んじられ、イエスをともに信じ、互いに愛し合い、仕え合うのが「永遠のいのち」なのです。
「一粒の麦」という生き生きとしたイメージは、イエスご自身「一粒の麦」として生き、死に、豊かな実を結ばれたイエスのご生涯を思わせます。そして、その実の中に、他ならない私自身が含まれています[xvi]。私たちもそのあり方に招き入れられました。今から執り行う聖餐式も麦から出来たパンに、イエスと私たちを託して覚えさせてくれるものですね[xvii]。
今日、この待降節第一聖日の聖餐式で、私たちのためご自身を捧げられた主イエスの示してくださったいのちの道を思いながら、私たちもその道を行く一粒の麦であることを、味わいましょう。決して神妙なこと、堅苦しく悲痛なことではなく、本当に喜ばしいこと、光栄ないのちに至ることを喜ぶ思いで! 主イエスの言葉はいのちの喜びに溢れています。主は私たちの全生活を、一粒の麦として、豊かないのちに思いを致しながら、歩ませてくださるのです。
「主よ。天から降り、人として生き、十字架に死なれた、一粒の麦としての愛を褒め称えます。飼葉桶から十字架に至る、惜しみない主のいのちあって、誰もが生かされています。私たちもその実りであり、一粒の麦です。どうぞ私たちを通してなそうとしているみわざを成してください。失うことを恐れる以上に、父が重んじてくださる恵みを信じ、豊かな恵みを望み見ながら、主の足跡に従わせてください。今パンと杯を通して、この幸いを豊かに戴かせてください」
[i]大勢の巡礼者がイエスを歓迎した、さながら新しい御国の祝宴のような光景に続いて、ギリシア人がイエスの元にやって来たのです。直前の19節(それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」)は、いみじくも、世界の人々がイエスの元に集められる将来を予告するようでした。その続きとして、現れたギリシア人の巡礼者たちは、「世はこぞって」を文字通り現す代表のようです。
[ii] ギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニストユダヤ人)、ではなくて、ユダヤ人の血が流れていない異邦人です。ギリシア人がユダヤ人を通して聖書に触れ、割礼は受けないけれども主なる神を礼拝し、巡礼にまで来ることはあり、彼ら「門前の改宗者」「神を恐れる人」と呼ばれました。
[iii] ヨハネの福音書7章35節:すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。
[iv] 21節の「お願いします」と訳された言葉の原語は、キュリオス(主よ)という呼びかけです。イエスへの呼びかけとして「主よ」とあるのは、ヨハネでも厳選された状況のみです。その呼びかけが弟子に対してなされるのは、ギリシア人たちの理解が、イエスを主と告白する(例えば、ヨハネ20章28節:ピリポは言った。「私の神、私の主よ」。)信仰にはまだ至っていないということかもしれません。少なくとも、ここを「主よ」と訳すのは憚られるからこそ、新改訳2017は「お願いします」と意訳しているのです。イエスの噂を聞いていたのでしょうか、群衆の歓迎に心が躍ったのでしょうか。その理解はまだ不十分で甚だ未熟だったのも、弟子たちがためらった理由かもしれません。
[v] この二人は、6章でも並んで登場します。その関係から、アンデレが仲介者として優れていたと評されることがありますが、今は、そこに脱線することはしません。
[vi] ヨハネの福音書2章4節(すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」)、7章6節(そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。)、8節(あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」)、30節(そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。)、8章20節(イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。)
[vii] ユダヤ人もギリシア人も、サマリア人もどの国の人も、国籍のない人やどこに所属しているのかわからない人も、人間の「常識」では「困った人が来た」と思われる人こそ、イエスがすべての人を招かれ、ご自分の羊として養い、導かれることの豊かさを表しています。
[viii] 「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。(ヨハネの福音書6章37節)と言っていたのですから、きっと会ったのでしょう。また、6章44節(わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。)、65節(そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」)も。
[ix] https://tenmie.blog.fc2.com/blog-entry-303.html
[x] 神を憎む(出エジプト記20章5節、申命記7章10節、32章41節など)というのは、憎悪することではなく、神を愛することを選ばない、おろそかにすることです。
[xi] 私たちは、永遠のいのち(イエスを信じる豊かないのち)に無条件に預かります。私たちが何か条件を満たすようなことは一切必要ありません。自分を否定したり犠牲を払ったりしなければ永遠のいのちを持てないのではありません。むしろ、イエスが永遠のいのちを恵みとしてくださるからこそ、自分のいのちを自分で守ろうとしなくて良いのです。
[xii] 私が思っている自分と、私が思っているイエス・神がある。しかし、イエスはその私の思うイメージさえ、麦の殻のように思って脱ぎ捨てることを惜しまず、自分をささげてくださいました。神の力、輝き、偉大さをまとっていた方が、その一切を後にして、胎児となってマリアの胎に宿り、小さく貧しく弱々しい赤ん坊として現れてくださいました。その後も、およそ神のイメージとは似ても似つかない、田舎出の人、大工の子、罪人の友、やけに馴れ馴れしい旅行者、聴いたこともない神を私たちの父と呼んで説き明かす教師として現れました。その飾らず、気負わず、人気や中傷を気にしないからこそ、世を騒がす者と危険視され、神を冒涜する者という罪状で十字架にかけられました。そして死んでくださり、よみがえってくださった。そのイエスの一粒の麦としてのいのちによって、私は今ここにいのちを得ています。そして、それゆえに、私も自分のイメージではなく、イエスのいのち、神が私を重んじてくださることに立って、自分を差し出し、素で生きていく。その時、いのちの交わりが豊かにあると信じるのです。
[xiii] イエスに従うとは、持っている物がなるべく失われず、最後には永遠のいのち(むしろ、将来の保証、というような何か)も戴ける、ということとは真逆です。
[xiv] 12章43節には「彼らは、神からの栄誉よりも人からの栄誉を愛したのである。」とあり、イエスを信じたけれども、二の足を踏んだ人たちの問題を言い表しています。
[xv] 重んじる ティマオー、ヨハネ5章23節(それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。)、8章49節(イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。)、12章26節。聖書協会共同訳では「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」としています。
[xvi] 神が素の私のことを重んじてくださるに、詰まらないプライドやメッキのような自慢や、競争心、勝ち負けに拘るなんて、どんなに愚かなことでしょう。でもそれをしばしばしてしまうのも私たちです。失ったら駄目だ、逆に犠牲を払わなければ重んじられない、そういう考え・物語が私たちに染みついているからです。だからイエスは「自分のいのちを憎む」という強い言い方をします。それは私たちが「一粒の麦」として、イエスの開いてくださったいのちの道を喜んで生きるためです。イエスの栄光が、十字架の死にさえ従ってでも、ギリシア人や私たち、罪人や病む者を一つ神の民とすることにあったように、私たちも「一粒の麦」であって、殻に守られるより、自分を捧げる時、豊かないのちの交わりに生かされます。「自分はユダヤ人だ、ギリシア人とは違う、自分は○○だ、そうぢゃない奴とは違う」という一切は、やがて必ず朽ちるし、拘ればますます台無しになり、何よりも永遠のいのちを妨げる麦の殻にすぎません。
[xvii] 「初代教会の指導者であるアンティオキアのイグナティウスという人がいます。このイグナティウスについて、古代の歴史家エウセビオスという人が『教会史』という書物の中に書き残しているのですが、そのころローマはキリスト教徒を捕らえては見世物にしてなぶり殺した。イグナティウスは、ローマの円形競技場、コロシアムで野獣に食われて殉教した。イグナティウスは最後のときに次のような言葉を残したと伝えられています。「私は神の一粒の麦である。私はキリストの豊かなパンになるために、野獣の歯に噛み砕かれるのだ」。日本福音ルーテルむさしの教会HP https://www.jelc-musashino.org/message/17848/ 。また、https://digital-archives.sophia.ac.jp/rarebook/view/rare_books/821974216