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2023/12/10 ヨハネの福音書12章27~32節「すべての人を自分のもとに引き寄せます」

前回24節で

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。

と、イエスはご自分を一粒の麦に譬えました。その死は、敗北や不本意な死ではなく、穂を実らせる麦粒のように、多くの人、世界の人々を集める尊い捧げ物です。だからといって、イエスはご自分の死に、顔色一つ変えず意気揚々としてはいません。

27今わたしの心は騒いでいる。(病んでいる、強い苦痛を覚える)」[i]

そう正直に言うのです。十字架という、全身を長時間苦しめ、辱める刑を前にして、気負わず、心の激しい恐れを隠さず吐露します。その上で、では

何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』(死なずに済むようにしてください)と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。

心騒がずにはおれない、このためにこそ、わたしはこれまで歩んできたのだと言います。そして、父に祈るのは

28父よ、御名の栄光を現してください。」

この時を支え、死を避けることよりも十字架を通して父なる神の栄光を現してください、と祈ることを選ぶのです。「栄光」というと当時のユダヤ人はしるし(輝かしさ、力、神らしさ)を、ギリシャ人は知恵(賢さ、名誉、称賛)と結びついていました(今もそうでしょう)[ii]。彼らが期待する救い主は英雄(ヒーロー)で、無残な十字架に死ぬとか、恐れを口にするなどあり得ません。イエスはそれとは真逆の救い主です。弱さや恐れ、恥や嘲笑の十字架、最も呪わしい死を引き受け、かつ、そこに向かう戦慄・葛藤も隠さないのです。

28…すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

イエスの今までの生涯も、父なる神の栄光の現れでした。病人や外国人、女性、罪を犯した人、お腹の空いた群衆、家族の死を悲しむ人々へのイエスの関わりに、父なる神の栄光は既に現されています。そして、イエスの十字架の死を通しても、父は再び栄光を現そう。直接と、特別な語り方をこの時なさったのです。

興味深いことにその場にいた人たちの聞こえ方は様々でした[iii]

29そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷がなったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。

これに対してのイエスの言葉も、ずっと意味深長です。

30イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。31今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。32わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」33これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」

イエスの死に方、「地上から上げられる」、つまりそれは十字架にあげられて、晒しものになる死です。同時にそれは、一粒の麦として死に豊かな実を結ぶ死、すべての人を自分のもとに引き寄せる死でもあります。それはこの時はまだ、彼らにピンときません。弟子たちでさえ、イエスの逮捕も十字架も、信じていませんでした。そして、実際にイエスが十字架に死んだ時、その場にいた誰一人として、それを失意と絶望としか思わなかったのです。私が使った歴史の教科書でもこんな紹介がされていました。「イエスは神の愛を説いたが、指導者たちに妬まれて、十字架に殺された」と。だからこそ、ここでイエスも、天からの声も、予め言ったのです。イエスの死は不本意な死ではなく、神の栄光の現れです。人の人生としては最低の、十字架の死の苦しみと屈辱をも惜しまない、イエスの私たちに対する最大・最高の恵みを現す栄光です。

ちょうどこの説教の準備中に届いた「クリスチャン新聞」に、パレスチナ人のキリスト者の記事がありました。パレスチナ人でありイスラエル国籍を持ち、キリスト者であるヨハンナ・カタナチョという神学者が『パレスチナの眼で読むヨハネ福音書』[iv]を書いて、このヨハネの福音書が、イスラエルやパレスチナ、民族や歴史、不正義や敵意で苦しむすべての人を、イエスは暴力の象徴である十字架に上げられることによって、ご自分に引き寄せてくださった。そこにキリストにある和解と平和を見ている。攻撃や力の争いではなく、キリストは自らのいのちをもって、それをしてくださったし、してくださる、というのです。

31節でイエスは

この世に対するさばき…この世を支配する者が追い出されます。

と言います。イエスは力強い神だからこそ無力・無防備になることも恐れず、私たちとの関係を回復してくださいますが、神ならざるこの世の支配者は所詮は神ではなく、無力ですから、人間にも不安や恐れを吹き込み、疑いや焦りを煽ります。サタンとか悪魔と呼ばれる悪い存在は[v]、悪の道に誘おうとするより、神が下さる愛と信頼の関係を、疑いや取引に変質させたいのです。「神様だって自分が大事だ、恵み深いったって限度がある」と思い込ませているのです。それをイエスの死は終わらせました。神がひとり子を惜しまず与え、イエスが「一粒の麦」として死ぬことで、私たちを引き寄せてくださるのです。この世が思いつかない、イエスの十字架の死は、それ自体がこの世をさばき、神を疑わせたい力を敗北させた時でした[vi]

それは人間の考えを超えたことです。天からの声も分からなかった群衆はここでも同様です。

34そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」

律法の中に来るべきキリストが「いつまでも生きる」という言葉は直接にはありませんし、旧約全体で言えば欄外注にあるように[vii]、キリストの永遠の支配を箇所もありますが、イエスによればキリストの苦難と死こそ聖書が証ししているのです[viii]。しかし群衆は、自分たちの理解とのちぐはぐに引っかかって、他人事(ひとごと)のような質問をするしか出来ません[ix]。だからイエスは彼らの好奇心めいた質問に直接答えるよりも、もっと単刀直入に彼らの必要を語ります。

35そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。36自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」

イエスはご自分を

「わたしは世の光です」

と言われました[x]。イエスは十字架にあげられて、すべての人を引き上げてくれました。恥や損とは相いれない強い、この世の神ではなく、人間の罪と呪いのすべてを引き受けることを厭わず、ご自身を与え尽くすイエスこそ、神の栄光であり、私たちの光です。イエスは、弱く、恐れ、辱められ、笑われる悲惨を背負い、私たちの闇の中に始まる道となってくださったのです。私たちの誰をも、引き寄せてくださったのです。私たちの側にその資格や相応しい装いがあったから、ではなく、偏にイエスの惜しみない捧げものが私たちのためであった。そのことが私たちの光なのです。このイエスの光によって、自分がどこに行くのかが分かるようになる、光の子どもとして歩むようになる。それが、キリストの十字架、人として最低の死であり、神の最高の栄光であるイエスの十字架です。

これで、イエスが群衆に対して語った教えは最後なのでしょう。

イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。

そして、この次イエスが公に姿を現すのは、十字架にかけられた時です。その最後に、前もって語っているのが、今日の言葉です。

神の栄光。ある方はこれを「神様の神様らしさ」と言いました[xi]。神様の神様らしさ。人は全知全能や思い通りの支配を神と結びつけますが、本当の神の神らしさは、人となったイエス、十字架も厭わず、私たちにいのちを捧げたイエスが現しています。そしてイエスは私たちをもご自分に引き寄せ、その栄光に与らせてくださるのです。これが神の栄光であり、神の力です。

「おとめマリアに降り、十字架に上げられた主の御名を崇めます。全知全能の神らしからぬあなたこそ、御父の栄光です。そんなあなただからこそ私たちはここにいます。その栄光を慕い求め、私たち自身の生き方も深く変えられますよう。華やかさや称賛や喝采ではなく、惜しみない憐れみといのちに与らせてください。強さの鎧のうちに闇を抱えた虚栄でなく、闇の中に来られた主イエスの光を思い巡らし、慕い求め、その主を照らす光の子どもらとしてください」

[i] ヨハネの福音書11章38節でも「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、」とありました。「比喩的に使用されているギリシャ語の動詞 (tarasso、GK 5429) は、「急性の精神的苦痛または混乱を引き起こす」 (L&N、25.244) という意味です。この言葉は、兄を失って泣いたマリアに対するイエスの反応の11章33節と、自分の弟子の一人が自分を裏切るだろうと認めたときの二階の部屋でのイエスの気分の13章21節で使われています。このような感情的な不安の状態で、イエスはこれから展開する出来事に対してどう反応すべきかを自問します。」(Mounce、DeepLによる翻訳)

[ii] Ⅰコリント書1章22~25節:ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

[iii] まるで天から神が語るとしても、それは人間が考える「神の声」とはかなり違い、人間は勝手に解釈することも出来るようです。人間が思い描く栄光、神や神の声、救い…。それは、キリストにおいて現された神のそれは、はるか遠くにかけ離れているのです。その大いなる隔たりを埋めるため、神の御子キリストは人となってくださったのです。

[iv] 「ヨハネの福音書を学ぶことは、私のようなパレスチナ人クリスチャンがアイデンティティーに内在する複雑な層を探求する機会を与えてくれます。ヨハネは多数派のユダヤ人の中でイエス・キリストに従う者で、私はイスラエルで多数派のユダヤ人の中で生きるクリスチャンです。それは、神と隣人を愛することに根ざした関係を築くことであり、憎しみに満ちた世界に愛の王国をもたらすことなのです」「ローマがパックス・ロマーナ(ラテン語で「ローマの平和」)の時代に剣によって平和をもたらそうとしたのに対し、キリストは十字架上で死ぬことによって平和をもたらした。ローマが預言者の声を封じ、不正を永続させることで平和をもたらしたのに対し、キリストの平和は、抑圧者の心を変え、神との和解の扉を開くことで赦しを与える(ルカ23・34、47)。」「イエスはユダヤ教を包括的に再定義し、最も深い希望を具現化した。彼は、排他的民族中心主義ではなく愛に満ちた友好的な人間性を象徴する、完璧な人間なのだ。「イエスの終末論的なユダヤ性は、パレスチナ人を脅かすものではありません。他民族の人々を押し出す排他的なユダヤ性ではなく、パレスチナ人とイスラエル人がキリストにあって一つになるよう招くユダヤ性なのです。これは教会が必死に宣べ伝えるべきことです」https://xn--pckuay0l6a7c1910dfvzb.com/?p=43488

[v] 「この世を支配する者」14章30節(わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。)、16章11節(さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。)

[vi] コロサイ書2章13~15節(背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、14私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。15そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。)、Ⅰヨハネ書3章8節(罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。)。

[vii] 「律法によって」 律法(モーセ5書)にはないが、欄外の証拠聖句リストによれば、詩篇110篇4節(主は誓われた。思い直されることはない。「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」)、イザヤ書9章7節(その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。)、エゼキエル書37章25節(彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与え、あなたがたの先祖が住んだ地に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちが、とこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。)、ダニエル書7章14節(この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。)、詩篇89篇4節(わたしは あなたの裔をとこしえまでも堅く立て あなたの王座を代々限りなく打ち立てる。」)

[viii] ルカの福音書24章25~27節(そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。)、44~47節(そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。45それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』…)

[ix] イエスが「一粒の麦」の譬え、いのちを捨てること、心騒ぐ思いの吐露、そして死を予告したことがピンと来ないのです。

[x] ヨハネの福音書8章12節、9章5節、など。