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2023/11/5 ヨハネの福音書11章54~57節「過越の祭りが近づいた」

今日は洗礼式と聖餐式があります。ヨハネ11章最後の短い4節から、ヨハネの福音書のイエスと過越の結び付きを概観します。ラザロを復活させた、イエスの最大の奇蹟は、ユダヤ最高法院に、イエスへの信仰どころか、イエス殺害へと踏み出させました。それが53節でした。

54そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

この町の詳細は不明なのですが、おそらくベタニアの北東の村、現在のパレスチナ自治区ヨルダン川西岸にあるタイベという村です[i]。イエスは12章からエルサレムに入るべく弟子たちと待機したのです。間もなく

「過越の祭り」

が近づきました(55節)「過越」はイスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放された出来事に遡ります。同じ春の時期、毎年「過越の祭り」を祝い、男子はエルサレムに上って来るのが慣習でした。この年も、その祭りのために「多くの人々」が上京してきました。同時に、彼らの話題はイエスでした。

56彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか。」[ii][これは「来ないだろう」という答を予想する文です。「イエスは祭りには来ないだろう」]57祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。

しかし、そんな人々の予想にも関わらず、イエスはこの後12章でやって来るのです。そればかりではなく、実はこの「過越の祭り」に来ることに意味がありました。

神はかつてエジプトを罰するに際し、奴隷だったイスラエル人にも、家毎に子羊を屠って、その血を玄関に塗るよう命じました。そのようにした家の前は、災いが通り過ぎて、家の誰も滅ぼされることがありませんでした[iii]。子羊のいのちのお陰で滅びを免れた、この出来事を、子羊の食事を備えながら毎年覚えたのが「過越の祭り」です。ヨハネの福音書にはこの「過越」が四回でてきます[iv]。更に、ヨハネはイエスが死んだ後、

「大いなる安息日」

つまり、過越の食事の日が始まるとします(19章31節)。他の三つの福音書ではそれより一日早い「最後の晩餐」を過越の食事なのです。ヨハネはイエスの死が過越の食事の前に起きた、つまり子羊が屠られる時間、本当の過越の子羊としての死だ、とするのです[v]。直前の51節でも言われました。

51…イエスが国民のために死のうとしておられること、52また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを…

ヨハネの一章で初めて姿を現したイエスを紹介した第一声は

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

でした。イエスの死は、過越の子羊として罪を取り除くためでした。いいえ3,500年前のエジプトでの過越や、それ以来毎年祝われた祭りこそ、イエスの予告でした。それは罪を取り除くための死です。罪――神ならぬ人がまことの神を捨てて神のように振舞い、他の人を奴隷にしていたあのエジプトのような罪――を終わらせる死です。神にも人にも背く罪の罰を、人に負わせず、身代わりに引き受ける死です。そして、その死はユダヤの国民だけでなく

「散らされている神の子らを一つに集めるためにも」

死なれた死でした。最初の過越も、災いが過ぎ越してああよかった、感謝だ、で終わりではありませんでした。奴隷生活を終わらせ、解放されて自由な、敵対や上下関係からも解放されて本当に心から一つとされた新しい民として、旅立つ始まりでした[vi]。それに準えられるイエスはご自分を

「良い牧者」

に譬えた10章16節で、他の囲いの羊も

「一つの群れ、一人の牧者」

として導いていくと思い描かせました[vii]。それは無理矢理抑えつけての「統一」とか、上辺の一致を装ったりした「画一」とは違います[viii]。イエスはそんな罪の関係を終わらせて、罪を取り除かれ、互いに赦し、心からの一致を育てるような「一つ」へと集めるために、ご自身を十字架に捧げる「神の子羊」です。

この時、過越の祭りのため、多くの人々がエルサレムに上ってきました[ix]。今、私たちは世界中に散らされているそれぞれの場所で主を覚えることが出来ます。自分で自分の身をきよめるのでなく、主が私たちを清めてくださる約束[x]を信じて、洗礼に一度だけ与ります[xi]。そして主の食卓、聖餐式に繰り返して与り、主が私たちの子羊となり、肉を裂き、血を流されたことを、パンと杯に託して覚えます。一つのパンが裂いて渡され、一つの杯をともに飲むことは、すべての罪をイエスが取り除き、救いようがないほど散らされている者をも一つとしてくださることの象徴です。
そこにはイエスを捕えて殺した人たちも含まれています。
ユダヤ人もパレスチナ人も含まれます。
お互い背を向け合って、「一つになる」なんて考えもしなかった人を一つに集めるため、主の死がありました。
その死は私たちのためでもあったのです。私たちの罪を取り除き、一つにするため主は死なれました。

洗礼を受け、ともに一つのパンと一つの杯を分け合う交わりがますます本物となることを願って、今から洗礼と聖餐をいたしましょう。

「私たちの過越の子羊キリストよ[xii]。私たちを滅びから救い、一つの群れとするために、命を捨てられた、計り知れない御業を覚えて御名を崇めます。一つとは程遠い世界にもあなたの小さな御業はそこここに散りばめられ、今日また洗礼式の恵みにより、あなたの尊い御業がここにもあることを覚えます。一つパンと杯を戴いて、私たちも裂かれ、溶かされ、謙り、主によって結び合わされる群れとならせてください。そうして子羊イエスの栄光を現させてください」

[i] オフラ(ヨシュア記18章23節)かエフロン(Ⅱ歴代誌13章19節)で、現在のタイベと思われます。これはパレスチナ自治区ヨルダン川西岸にある人口1,500人ほどの村です。Wikipediaより。https://www.yasuragi-church.org/archives/1081

[ii] 「宮の中」は「神殿の境内」とも訳されます(聖書協会共同訳)。ここは、過越の子羊が屠られる場所です。

[iii] 出エジプト記12章参照。

[iv] マタイは26章から、マルコは14章から、受難週の記述で過越に言及するのみ。ルカは、2章41節でイエス幼少期の過越巡礼に触れるのと、22章の受難週記事です。これに比して、ヨハネは、2章6章11章で過越に触れ、5章の「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」も過越との見方が有力です。これが基準になって、イエスの公生涯が足掛け四年である、という計算にもなります。

[v] 日程の問題については、こちらの論文など。https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/40643/files/SLL_71_071.pdf

[vi] 出エジプト記12章37~42節:イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。38さらに、入り混じって来た多くの異国人と、羊や牛などおびただしい数の家畜も、彼らとともに上った。39彼らはエジプトから携えて来た生地を焼いて、種なしのパン菓子を作った。それにはパン種が入っていなかった。彼らはエジプトを追い出されてぐずぐずしてはいられず、また自分たちの食糧の準備もできなかったからである。40イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。41四百三十年が終わった、ちょうどその日に、主の全軍団がエジプトの地を出た。42それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。

[vii] ヨハネの福音書における「一つとする」の主な箇所:10章16節(わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。)、17章11節(わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。)、21~23節(父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。)
また、この「一つ」についての明確な箇所としては、エペソ人への手紙とペテロの手紙第一があります:エペソ書1章10節(時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。)、2章14~16節(実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、15様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。)、4章3~7節(平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。4あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。5主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。…7しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。)、4章13節(私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。)、Ⅰペテロ2章21~25節:このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。) 具体的には、しもべと主人、妻と夫、皆の関係性へと適用される。

[viii] そうした歪んだ関係性こそ罪です。

[ix] 早めに集まったのは「身を清めるため」とありますが、元々そんな何日も前から禊をしなければならない、などという決まりはなかったのです。具体的には、「女に近づいてはならない」、つまり妻との性交の節制です。出エジプト記19章15節。身を慎むのは、せいぜい三日前です。それがいつからか、祭りの前からエルサレムに来る、などという慣習が出来てしまう。それが出来る人はいいけれど、出来ない人はどうでしょう。

[x] ヨハネ17章17節(真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。)、19節(わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。)

[xi] きよめるハグニゾー ヨハネでここのみ。元になる名詞ハグノスは、聖ハギオスとほぼ同義。ハギオスは、ヨハネの福音書において、「聖霊ハギオス・プニューマ」で5回:1章33節(私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』)、6章69節(私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」)、14章26節(しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。)、17章11節(わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。)、20章22節(こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。)、聖とするハギアゾーは10章36節(『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒瀆している』と言うのですか。)、17章17節、19節(前述)。

[xii] Ⅰコリント5章7節:新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。