2023/11/26 ヨハネの福音書12章12~19節「あなたの王が来られる」
来週から待降節を迎えます。それに先立つ今日のヨハネ12章は、イエス・キリストが十字架の死の数日前、大勢の群衆がイエスを王として迎えた出来事です。同時にそれをヨハネは、旧約の預言書を引きながら、預言の言葉の成就に重ねて、ここに主の約束された終末を見ているのです。
ヨハネはまずこの出来事を
12…祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
と描きます。この人々は11章55節に出て来た巡礼者たちです。彼らはイエスに先立って都に来てイエスを捜していましたが、見つからないので、イエスは
祭りには来られないのだろうか(来られないだろう)
と互いに話していたのです。その来ないと思っていたイエスが
来られると聞いて
彼らは出てきました。その手に
13なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、
とは以前10章22節でお話しした、「宮きよめの祭り」に因んでいます。イエスの時代から二百年近く前に、エルサレム神殿がシリア軍の占領から奪還された際、なつめ椰子の枝を振って、凱旋行列を歓迎したのです[i]。イエスを歓迎するため、なつめ椰子(棕櫚)の枝を持ってきた人々は、イエスにかつての「宮きよめ」のマカバイ将軍に重ねているのです。そして彼らは
こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
これは、詩篇118篇25節から取られた歌です[ii]。しかしそこに「イスラエルの王に」と付け加えています。いわば「替え歌」にしています[iii]。いかにも彼らの嬉しそうな、興奮した様子がうかがえます。これを受けてイエスがしたのは、
14イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
15「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
群衆たちが「イスラエルの王に」と叫んだのを受けて、イエスがロバの子を見つけて乗ったことを聖書の預言の成就とするのです。マタイや他三つの福音書では、ロバの子を連れて来させたドラマが詳しく書かれます[iv]。特にマタイはロバの子についてゼカリヤ書9章9節を引いて「柔和さ」と重ねます[v]。これに対してヨハネの15節の言葉は、
「恐れるな」
という言葉、イザヤ書35章4節と、同じくイザヤ62章11節、そしてゼパニヤ書3章16節をミックスした自由引用で[vi]、この出来事の意味を膨らませます。特にこのイザヤ書35章に注目しましょう。
イザヤ書35章は、イザヤ書に何度かある大きな結びの一つです。
強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。
と将来の希望を歌うのです。神が来られる、を「復讐が、神の報いがやって来る」と言い換えますが、神の復讐とは、人を罰したり懲らしめたり滅ぼして終わることではないのです。
神は来て、あなたがたを救われる。
それが神の復讐です。死や恐れ、疑い、罪や憎しみ、争いから救われる。その主が来られる。そしてイザヤ書に出て来るのは、弱った手、よろめく膝、心騒ぐ者、目の見えない人、耳の聞こえない人、足の萎えた人、口のきけない人たちが、回復して踊り出す光景です。神は来る。救いと回復という復讐の王として来る。その時、弱っている人や障害のある人、ビクビク生きている人も、頭にとこしえの喜びを戴き、悲しみと嘆きは逃げ去る、これがイザヤ35章です。
こんな素晴らしいイザヤ書35章ですから今日の交読にもしたい所でしたが、讃美歌の交読文37には「目の見えない者・耳の聞こえない者・足の萎えた者」の件で、今では差別語・不快語とされる言葉が使われています。これを読んだら将来の希望どころか、今を無神経に踏みにじってしまいます。聖書の時代は今のような医療がない分、目が見えない、足が歩けない人は大勢いたでしょう。教会は病人や障害ある方が多くいたでしょう。自分の弱さ、出来なさ、ハンディ、隠しておきたい問題や過去を持つ私たちの集まりです。その一人一人が、
恐れるな。あなたの王が来られる。
という言葉を約束されている。ヨハネは正直に言います。
16これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。
この時は分からなかったのです。イエスが栄光を受けられた後、つまりイエスの十字架と復活と昇天という栄光を果たされた後、ああ、あのエルサレム入城は旧約の預言の成就だったのだ、と思い起こしたのです。それも、
これがイエスについて書かれていたことで
というのは、イエスがロバの子に乗って入城したことでなく、
それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした
というのですね。
この後、ヨハネの福音書では王という言葉を繰り返します。イエスが王であること、そして、それは人が考える王とは全く逆の王であることを描いていきます[vii]。ここでも、イエスはロバに乗りました。王が馬に乗って来るならば軍事的な将軍、英雄です。多くの人がイエスに期待したのも軍馬で敵を蹴散らすようなメシアでした。しかしイエスが乗ったのはロバの子でした。軍馬や軍隊や武力、スピードや華々しさで支配する王でなく、平和で高貴な王、謙り、急がず、仕えることで治め、民を導く王です。
また、17節でイエスが死者の中からよみがえらせたラザロのことが証しされます。病気や死は私たちを支配するもののように思えますが、イエスは病気や死よりも強く、私たちを生かしてくださる、私たちの王です。
19節ではパリサイ人たちが言います。
見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。
10節では、最高法院の一部、祭司長たちがイエスもラザロも殺す算段をしましたが、イエスを歓迎する巡礼者を見て、最高法院のもう一部、パリサイ人たちは敗北感を覚えて悔しがっています。イエスこそ私たちの王です。権力者、国家や政治家や有力者たちも、私たちの王ではありません。イエスこそ私たちの王。だから私たちは、恐れずに、心から喜んで、賛美して
「祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」
と歌うことが出来るのです。このエルサレム入城の群衆たちは、その先駆けです。
とはいえ、それはまだ不完全です。パリサイ人や最高法院は、数日後にはイエスを捕えます。群衆の歓迎の言葉はかき消されて、エルサレムに住む群衆たちは[viii]、イエスを十字架につけろと叫ぶようになります。私たちは未だに病や死や、恐れや疑いにたじろぐ思いをします。そしてヨハネや弟子たちも後からその意味が分かったように、私たちも福音の言葉に相応しい言葉遣いをまだ手探りし続け、みことばの意味をまだまだ発見している途中です。
しかし大祭司たちが悔しがることに、ピラトはイエスの十字架上の罪状書きに
「ユダヤ人の王」
と書かせ、撤回させません[ix]。19節の台詞はいみじくもこの世界で繰り返される悔しい呟きを言い当てています。
ヨハネの黙示録にはこう描かれます。
七9その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
その前後を見るとこの人々は
大きな患難を経てきた者たち
です。世も末の大患難、だけでなく、世界中の、飢えや渇き、暑さや苦しみ、孤独、涙を通って来た人々です。その彼らを、子羊イエスが救い主となり、王となり牧者となり、慰めてくださるので、その人々は大声で賛美するのです[x]。その光景は、今日のヨハネ12章、なつめ椰子の枝を持って主を迎えた姿に重なります。
「恐れるな」
という言葉はクリスマスの聖書個所でも何度も繰り返されます。マリアもヨセフも、羊飼いも「恐れるな」と告げられます。今日からの待降節(アドベント)はクリスマスを待つとともに、再び来られる主を待つ時です。それは主が来られるだけでなく、恐れや嘆きが終わる時が来る、という約束を信じる時です。多くの人、その苦しみや痛みが深すぎて、私たちが互いに理解し合うことさえ難しいようなすべての人のため、イエスは来てくださいました。そしてもう一度おいでになります。その希望が今私たちの心を照らして、賛美と互いへの思いを照らすのです。
「来たり給う王なる主、私たちも手に喜びを携えてあなたを迎えます。あなたこそ私たちの王であることを感謝します。私たちが今、あなたを喜び礼拝して生きることも、聖書の預言の成就に他なりません。平和を待ち望み、恐れと闇の中で礼拝を捧げる、世界中の兄弟姉妹を覚えつつ、ともにこの待降節を過ごさせてください。この希望により私たちを新しくしてください」
[i] 讃美歌130番「喜べや称えよや」は、このイエスのエルサレム入城に合わせて歌われることの多い讃美歌ですが、原曲はヘンデルのオラトリオ「ユダ・マカバイオス」で、マカバイ記の「宮きよめ」をテーマにした曲です。
[ii] 詩篇118篇:主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。
2 さあ イスラエルよ 言え。 「主の恵みはとこしえまで。」
3さあ アロンの家よ 言え。 「主の恵みはとこしえまで。」
4さあ 主を恐れる者たちよ 言え。 「主の恵みはとこしえまで。」
5苦しみのうちから 私は主を呼び求めた。 主は答えて 私を広やかな地へ導かれた。
6主は私の味方。私は恐れない。 人は私に何ができよう。
7主は私の味方 私を助ける方。 私は 私を憎む者をものともしない。
8主に身を避けることは 人に信頼するよりも良い。
9主に身を避けることは 君主たちに信頼するよりも良い。
10 すべての国々が私を取り囲んだ。 しかし主の御名によって 私は彼らを断ち切る。
11彼らは私を取り囲んだ。まことに私を取り囲んだ。 しかし主の御名によって 私は彼らを断ち切る。
12蜂のように 彼らは私を取り囲んだが 茨の火のように消された。
主の御名によって 私は彼らを断ち切る。
13おまえは私を激しく押し倒そうとしたが 主が私を助けられた。
14主は私の力 またほめ歌。 主は私の救いとなられた。
15喜びと救いの声は 正しい者の幕屋の内にある。 主の右の手は力ある働きをする。
16主の右の手は高く上げられ 主の右の手は力ある働きをする。
17私は死ぬことなく かえって生きて 主のみわざを語り告げよう。
18主は私を厳しく懲らしめられた。 しかし 私を死に渡されはしなかった。
19 義の門よ 私のために開け。 私はそこから入り 主に感謝しよう。
20これこそ主の門。 正しい者たちはここから入る。
21私はあなたに感謝します。 あなたが私に答え 私の救いとなられたからです。
22家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。
23これは主がなさったこと。 私たちの目には不思議なことだ。
24これは主が設けられた日。 この日を楽しみ喜ぼう。
25ああ主よ どうか救ってください。 ああ主よ どうか栄えさせてください。
26祝福あれ 主の御名によって来られる方に。 私たちは主の家からあなたがたを祝福する。
27主こそ神。主は私たちに光を与えられた。 枝をもって 祭りの行列を組め。 祭壇の角のところまで。
28あなたは私の神。私はあなたに感謝します。 あなたは私の神。私はあなたをあがめます。
29主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。
[iii] 加藤常昭『ヨハネによる福音書3』より。
[iv] 共観福音書の「エルサレム入城」記事は以下の通りです。
マタイ21章1~11節:さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。2「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。3もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」4このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。5「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」6そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。8すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。9群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。10こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。11群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
マルコの福音書11章1~11節:さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。2「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。3もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」4弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。5すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」6弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。7それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。8すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。9そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。10祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」11こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
ルカの福音書19章28~40節:これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。29オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。30「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。31もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32使いに出された二人が行って見ると、イエスが言われたとおりであった。33彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、「どうして、子ろばをほどくのか」と彼らに言った。34弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った。35二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした。36イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。37 イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、38こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」39するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。40イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」
[v] ゼカリヤ書9章9節:娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
[vi] イザヤ35章4節(心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」)、62章11節(見よ。主は地の果てに聞かせられた。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの救いが来る。見よ、その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」)、ゼパニヤ書3章16~17節(その日、エルサレムは次のように言われる。『シオンよ、恐れるな。気力を失うな。17あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる』と。)
[vii] 王バシリュース 16回、1章49節(ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」)、6章15節(イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。)、12章13節(なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」)、15節(「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」)、18章33節(そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」)、37節(そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」)、39節(過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」)、19章3節(彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。)、12節(ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」)、14~15節(その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」15彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」)、19節(ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。)、21節(そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。)
[viii] ピラトに対して、イエスのことを「十字架につけろ」と叫んだ群衆は、エルサレムの住人です。エルサレム入城で「ホサナ、祝福あれ」と叫んだのは、イエスとともにエルサレムにやってきた巡礼者たち、また弟子たちです。この両者を混同して、「日曜日には歓喜してイエスを歓迎した人々が、金曜日には『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫んだ」という説教がよく聞かれますが、釈義的には不正確です。ただし、私たちが日曜日には歓喜して主を賛美しながら、金曜日(といわず、月曜日、いいえ、日曜礼拝の帰途でさえ)には主を否み、呪ったり、憎しみで叫んだりしかねないものであることは、否定できない事実です。
[ix] ヨハネの福音書19章19~22節。
[x] 同13-14節すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。14そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。15それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。16彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。17御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」