2023/10/22 ヨハネの福音書11章38-44節「ラザロよ、出て来なさい」
11章、ラザロの復活の終盤の箇所です。ここまで、長い前置き、経緯が書かれていました。
38イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。…
とあります。再びとあるのは前回33節でイエスが
…霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
で、35節は
「イエスは涙を流され」
と、イエスが激しく深い感情を露にされた流れでの再びです。また、3節や5節にはイエスがラザロと姉たちマルタ、マリアを愛しておられたことが強く念を押されていて、ラザロの死、引いては聴衆である教会、この世界の悲嘆、私たちの苦しみに対してイエスが深く憐れみ、病気や死の悲しみに、心を引き裂かれる様子を覚えさせています。
けれどもそれは私たち人間の悲しみとは違います。私たちの悲しみには絶望や無力感や諦めがまといつきます。その私たちに――神よりも死や禍の方が強いように信じている、その私たちにこそ、イエスは憤るのです。遠い将来ややがての再会の希望ではなく、わたしがよみがえりであり、いのちである、と力強く語りました。その証しに、ラザロを復活させるのです。
39イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」40イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
イエスは直接マルタに「信じるなら神の栄光を見る」とは言っていませんが、4節で弟子たちに向かって、
「…この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
と言いました。また25節でマルタに、
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
と言います。マルタは
「はい、主よ…」
と答えて信仰を改めて表明しました。マルタは信じたのです。ならば、死に襲われても、それを打ち負かすいのちに与っています。それはマルタが信じたから、とかイエスがそう約束されたからという以上に、イエスを遣わした父なる神が、いのちを与えることでご自身の栄光を現される、大きな御心の中でのことです。
41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。42あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
ラザロをよみがえらせるのは、イエスを遣わした父なる神の証しなのです。人々をさばきから救い、死からいのちへ、疑いから信仰へ、断絶した関係から回復されて、永遠にいのちを得させる――その父の御心のためイエスが遣わされたのだと、ヨハネは繰り返し語ってきました[i]。その一つは6章39節です。
「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」
「信じるなら神の栄光を見る」だけを抜き取るなら「信じなければ神の栄光は見られない=神の栄光を見られないのは私の信仰が不十分だから」という伝言ゲームが起こります。しかし、全体を見ると、父なる神の栄光――人にいのちを必ず与えると決めた恵みの御心――が先にあり、そのために惜しまずに御子を与え、遣わされたイエスは私たちに近づいて「信じる」関係を始めてくださいます。マルタは信じました。一瞬、
「主よ、もう臭くなっています」
と躊躇(ためら)いましたが、折角の神の栄光も、彼女が躊躇ったせいでふいになるのでしょうか。躊躇い、疑い、理解も不十分な私たちも、イエスを信じる関係に入れられている以上、必ず神の栄光を見させて頂くのです。だからイエスは、誰もが怯む中、続いて言われる、いえ大声で叫ぶのです。
43そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
勿論、死んでいたラザロには、どんな大きな声で呼びかけても関係ありません。復活のための大声ではなく、これも、聴く人々や私たちが、神の深く強く熱い御心を知るための大声でしょう。この「叫んだ」は本当に大きな叫びで、群衆の大興奮に使われ、イエスが主語なのはここだけ[ii]、他にはない叫びです。こんなにも激しく、イエスは人にいのちを与える…。
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
手と足を長い布で巻かれたままどうやって出て来るのでしょう。38節に
「墓は洞穴で」
とあります。それは、腰ぐらいの高さの横に広がった入り口だったとも言われ、だとしたら手と足を巻かれたまま、転がって出て来たのかもしれません。立って出て来ると思い込んでいたら、滑稽に思えるかもしれませんが、それが貧乏な当時の庶民の精一杯だったのかもしれません。そして、それは馬鹿にした笑いではなく、本当に大喜びで迎えられるようなことです。
ここまで詳しく丁寧に描かれてきて、肝心な復活はこれだけです。復活したラザロの台詞、マルタとマリアが喜び迎えた様子、そういう描写は一切ありません。ラザロの復活は、単に死んだ人がよみがえって良かった良かった、死別の悲しみが終わってハッピーハッピーと全く描きません。死者が生き返った再会や、帰って来て失った生活が元通りになったではなくて、イエスがよみがえりでありいのちだ、ということです。そしてこれは、まもなくイエスご自身が墓に葬られ、よみがえることへの伏線です[iii]。この、いのちであるイエスが私たちにいのちを下さることを抜きにして、神を小さく考え、文句や嫌味や争い、生きづらいいのちにしている罪があります。イエスはそこから救い出して、信じる者を生かしてくださいます。それは本当に新しくて、おいそれと後日談を語ったり出来ないほど新しく、驚きに満ちたいのち――私たちのために死んでよみがえったイエスを信じるいのち――善い羊飼いに養われ、罪の赦しを戴き、ブドウのように豊かに実を実らせ、互いに愛し合い、仕え合う新しいいのちなのです。
ホラー映画のジャンルに「ゾンビ」モノがあります。死者が生き返って人を襲う悪夢です。キリスト教は「死者が栄光のうちに復活する」という教理ですが、もし神の栄光抜きによみがえるなら、あんな悪夢になるでしょう。死ぬのも怖いけれど、生きるのも疲れる…そんな世界が永遠に続くなんてことは信じたいとは思いません。文字通りのラザロの復活の奇蹟を信じて終わるのではなく、イエスの涙と死と復活が現している、神の栄光への信仰が要なのです。
しかし、ゾンビ映画やホラー映画でも勝れたものがあり、ゾンビ以上に人間の恐ろしさが描かれています。死にたくない追い詰められた心理から、どんな醜い行動を取ってしまうかが悲劇を生みます。不安、猜疑心、思い込み、集団心理は、生きながらにして人間を恐ろしい存在にします。赦せない心、愛し信じることが出来ない心が深く解決されないまま、ただ永久のいのちが与えられるならば、それは地獄でしかありません。キリスト教信仰は、サバイバルゲームへの解答としての宗教、復活信仰なのではありません。今、人をイエスを信じるという「永遠のいのち」を与えて、サバイバルゲームそのものを終わらせるのが、イエスの福音なのです。
死者の復活なんて荒唐無稽と言われるでしょうが、聖書は冒頭
初めに神が天と地を創造した。
と始まるのです。そして創造主なる神がどれほど真実に、人間に関わり、忍耐し、慈しみ深く、救いを与え、恵みを注いでくださるかを語ります。その神の栄光をイエスは現しました。石の墓だけでなく、この世界の冷たく固くいのちを閉じ込めている墓を開かれるのです[iv]。
この神が私たちの名を呼ばれます。あまり大きな声で呼ばれるのは恥ずかしかったり、不安になったりします。しかしイエスに呼ばれる時、恥とか面倒臭さも心配いりません。私たちを愛し、私たちのすべてをご存じの方が、喜んで私たちの名を呼ばれるのです。そんな愛よりも、人の目や声の方を気にして、もう臭いとか何とかの方が気になる私たちであっても、それもご存じで、イエスは私たちを呼んでくださいます。
「出て来なさい――冷たい墓の中から、死臭の立ち込めた生活から、臭い物に蓋をする生き方から、諦めや疑いや後悔、人や自分を責める闇から出て来なさい。石が取り除けられ、光が差し、言葉が聞こえたなら、出て来なさい。転がってでも、まだまとわりつくものに巻かれたままでも出て来なさい。」
いのちそのものである方がそう言ってくださる言葉を聞きながら、私たちは今生かされているのです[v]。
「よみがえりでありいのちである主よ。ラザロを呼び出された主の声が、私たち一人一人にも叫ばれて、新しいいのちに与る。その約束を戴いて、今すでに、いのちである主に生かされてここにいます。愛は死よりも強く、恵みは罪よりも強く、光は闇を貫きます。あなたは私たちよりも強いのです。どうぞ主よ、冷たい何かに囚われた中で呻いている声を聞き、あなたの御声で答えてください。私たちを救い、いのちを癒し、神の栄光のために新しくしてください。」
[i] ヨハネはこのイエスの派遣を強調します章3章17節(神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。)、34節(神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。)、4章34節(イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。)、5章23~24節(それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。24まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。)、30節(わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。)、36~38節(しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。37また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。38また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。)、6章29節(イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」)、38~39節(わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。39わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。)、44節(わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。)、57節(生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。)、7章16節(そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。)、18節(自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。)、28~29節(イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。29わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」)、33節(そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。)、8章16節(たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。)、18節(わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」)、26節(わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」)、29節(わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」)、42節(イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。)、9章4節(わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。)、10章36節(『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒瀆している』と言うのですか。)、11章42節、12章44~45節(イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。45また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。)、49節(わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。)、13章16節(まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。)、20節(まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」)、14章24節(わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。)、15章21節(しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。)、16章5節(しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、『どこに行くのですか』と尋ねません。)、7節(しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。)、17章3節(永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。)、8節(あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。)、21節(父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。)、23節(わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。)、25節(正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。)、20章21節(イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」)
[ii] 叫ぶクラウガゾー 11章43節、12章13節(なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」)、18章40節(すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。)、19章6節(祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」)、12節(ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」)、15節(彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」)
[iii] 1. ラザロの復活は、イエスの敵に、イエス殺害への決意を踏み出させます。47~53節
2. 本章には、いくつものイエスの死を予感させる言葉がありました。8節、16節、
3. ラザロの復活とイエスの復活(20章)にはいつくもの対照があります。
墓を石がふさいでいること(20章1節)
遺体の場所の重視(20章2節)
遺体を包んでいた布、特に頭を包んでいた布への言及(20章5、7節)
マリア(マグダラの)の涙(20章11節)
[iv] このまもなく後、十字架にかけられ、人間の罪の闇の一切を身に受けて死なれます。しかしその三日目によみがえり、悲しみの中にいる女弟子に近づき、戸を閉め切った弟子たちのそばに現れ、自分を赦せない弟子に「わたしを愛しますか」と何度も問うてくださいます。そのご自身の死と復活への伏線として、イエスはラザロの墓に行き、冷たく重い石、それにもまさる死という蓋があっても、イエスは私たちにいのちを与えるお方であることを示してくださったのです。
[v] バーバラ・ブラウン・テイラーは次のように書いています。「…宇宙には死よりも強い力が存在し、私たちを悪臭を放つ墓から、豊かで甘美な人生の神秘へと呼び出すことができます…私たちには、死から私たちを復活させてくれる神がいます。」死者、それを回避するのではなく、それを乗り越えて働くことでそれに終止符を打ちます – 悲しみの真っ只中に命を創造し、喪失の真っ只中に愛を創造し、絶望の真っ只中に信仰を創造し – 私たちを大小の死から復活させます… 」 https://www.holytrinitygreenport.com/sermon-november-4-2018