2025/11/16 ルカ7章36~41節「あなたに言いたいことがあります」
この時、イエスはある人の家に、食事に招かれたのです。それは「パリサイ人」と言われる、聖書の律法をキッチリと守ろうとするグループの人でした。清く正しく信仰深く生きるため、神の律法を六百十三のルールに細かくして、厳密に正しく、我慢や犠牲を惜しまない――それがパリサイ派でした[i]。その人が、イエスを自分の家に招きました。すると、その町にいた一人の女性が、呼ばれもしないのに、その家に入って来た、そして
38…イエスの足元に近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
というのです。思いもしない展開になりました。
この女性は「ひとりの罪深い女」とだけ紹介されています。名前も分かりません。恐らく、売春婦だったのでしょうが、違うスキャンダルだったのかもしれませんし、売春婦となるにしてもどういう経緯で、そうなったのか、ならざるを得ない悲しい事情があったのかも不明です。そして、どんなふうにイエスの話を聴き、ここに来たのか、これがイエスと出会う初めてだったのか、何度目かだったのでしょうか。どのようにしてか、彼女はここでイエスがいることを聞いて、その足に香油を塗って差し上げたい、とやって来たのです。それは、彼女が思いつく、イエス様への感謝の表し方、愛や精一杯の心を込めた、贈り物の行為でした。
けれどもその時、あのパリサイ人は心の中で思うのです。
39…「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」…
この女は罪深いのだから。これが、この人の思いでした。この女は罪深い、今ものこのこと自分の家に入り込んでいる恥知らず、そしてボロボロだらしなく泣いて。人前で髪の毛を解ほどいて、その髪でイエスの足を拭うだなんて、はしたない。やっぱりこの女は罪深い、どうしようもない女だ――そういう思いが瞬時に駆け巡ったのでしょうか。そして、こんな罪深い女に触られたなら、イエスが預言者(神から遣わされた人)なら分かるはずだ! 神はきよく、人の罪や汚れとは相容れない方だから、イエスが神の預言者なら、自分に触っている女が罪深い女だと分からないはずがない、黙って香油を塗られるままにしておくはずがない。
40するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
こう言って、イエスは一つの例え話を、彼に聞かせるのですが、ここで彼の名前がシモンだったと分かりますね。これはこのパリサイ人の名前です。この人は、入って来た女性を「あの罪深い女」と見ました。そしてイエスもそれが分かるだろうか、と冷たい目で眺めていました。しかし、イエスはそういう思いを知っても、「この冷たいパリサイ人め」とは見ずに
「シモン」
と名前で呼ぶのです。ご自分をまだ信じず「本当に預言者かどうか、神からの方かどうか、見てやろう」という疑いの目、敵意で見られていても、イエスは彼を敵とは見なさないのです。この人だけでなく、誰をも、私たちのことも、そうです。私たちは、人を一括りにしやすい。外見で「日本人じゃなさそう」とか、仕事は何をしているか、収入は? いろんなことで人を纏めて考えやすい。イエスはそんなふうには見ませんし、人を色分けしてしまう私たちをも、ひとりひとり名前で呼んでくださり、決して「罪深い女/傲慢な男」とは見ないのです。
そして「シモン、あなたに言いたいことがあります。」と言って、こんな譬えを話します。
41「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ[欄外の通り、一デナリは当時の一日分の労賃に相当、500日分の給料]、もう一人は五十デナリ[50日分]。42彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
50デナリ、約二か月分の稼ぎの借金を帳消しにしてもらうのと、その十倍とでは、十倍許してもらった方が、感謝するでしょう。勿論、裏があるんじゃないか、そんな金貸しはいるはずがない、とかツッコミどころは色々あるでしょう。しかし、単純に比較したら、答えは明らか。
43シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうがと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
多くを赦してもらった方が、より多く愛するようになる。そう考えさせたうえで、イエスは、
44それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。[「罪深い女」と決めつけずに、この人を見ましたか。]わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。45あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。46あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。47ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
シモンがあれもしなかったこれもしなかった、と恨みがましく言いたいのではなく、彼女がこんなに惜しみなくしてくれている事実を見てほしいのです。そして、先の借金を赦してもらった話の通り、この女性の溢れる行動は、多くを赦された喜びの姿です。これだけのことをしたから許してもらえる、ではない。罪を赦されたから、思いが溢れるのです。
「そもそも金貸しが借金を帳消しにするはずがないじゃないか」というツッコミがあるかもしれません。実はそここそがミソなのです。パリサイ人の真面目な考えでは、神は借りた金をどうやってでも返すよう人を責め立てる金貸しでした。イエスは逆です。神は、返せない借金よりもその人に目を留めて、帳消しにすることもする金貸しみたいな方です。そうイエスは示してくださっているのです。勿論、それは人が怠けたり、無責任に生きたりしてもいい、ということではありません。罪を続けたり、借金を重ねたりするような生き方は変わる必要があります。その変化は、厳しい罰やレッテル貼りでは出来ません。赦しこそが人を変えるのです。罪や借金がどんなにあっても、それも含めて、私を見、私を愛し、新しく生きることを励ましてくださるのです。その事を示すために、でしょう、イエスは48節で
あなたの罪は赦されています
と宣言します。既に彼女は、どこかの時点で何らかの形で、赦しを受け取っていました。だからこそ、ここでこんなにもひたむきに、自分の出来る最高の愛を贈ったのです。
イエスは私たちがどんな男、どんな女であるかをよくよく知っています。罪や過去もご存じ、自分を棚に上げて人を指差す心もご存じ、それでもなお私たちを愛し、名前で呼んでくださる方です。そして、私たちも赦されている者としてお互いに、さばいたり、見下したりせず、互いに名前を呼び合う者として、新しく生かしてくださるお方です。
50イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
イエスは私たちにもこう言って、ここから遣わされます。ここではパリサイ人シモンがどうなったか、食卓の人々もこの後どうしたか、は触れていませんね。だからこそ、この話は私たちにも問いかける余韻があります。けれど、思うのです、39節のシモンの心の中の声がここにあるのは、彼が後にイエスを信じたからではないか。ルールを守る正しさから、自分のこんな心の声も告白する者に変えられたからではないか。だとしたら、彼がこの女の人や、今まで蔑んでいたような人々をも一緒に食事をしようと招いて、足を洗ったりもてなすことが、この家であったことを想像したくなります。少なくとも、教会とはそういう場です。教会の食事とは、そういう時です。そして、安心と共に派遣されていく交わりを、ここに作ってくださいます。
「『罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。』大いなる聖なる主が、罪を赦し、新しくしてくださいます。暗い心、冷たい思いから、救い出すため、御子イエスが謙り、貧しく生き、十字架の死にまで従われました。見よ、と言われる主よ、罪深いと指差される者に、溢れる喜びを与えてください。人を指差す傲慢な正しさを、限りない憐れみで砕き、本当に豊かな恵みに生かされている幸いを見せてください。あなたが私たちの足も心も洗ってください」

[i] 「パリサイ人も律法学者も、互いに厳しさを競っていた。彼らは神の律法を六百十三のルールに細分化し―二百四十八の命令と三百六十五の禁則――千五百二十一の修正箇所をもって支えていた。彼らは、「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない」という第三の戒律を破らないようにするため、神の名をけっして口にしなかった。性の誘惑を避けるためには、頭を低く垂れて女性を見ないようにするのが常だった(これらの中でも最も慎重な人々は、壁やほかの障害物に始終頭をぶつけていたため、「血だらけのパリサイ人」として知られていた)。安息日を汚さないためには、「仕事」と解釈され得る三十九の活動を禁止した。」、フィリップ・ヤンシー『私の知らなかったイエス』、199頁。
