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2025/6/23 イザヤ書11章1〜9節「主を知ることが地に満ちる」

クリスマスの讃美歌96番「エサイの根より」はこのイザヤ書11・1から取られ「イザヤの告げし」とさえある讃美歌です。預言者や聖書記者が名指される讃美歌はレアで、今日のイザヤ書預言のインパクトの大きさを物語っています[i]。この有名な言葉も、これだけでポツンと語られた言葉ではありません。とりわけ「エッサイの根株」とはこの場合、切り株のことです。大きな木が切り倒され、残された切り株は、なんとも寂しく、寒々しい感じです。前回まで見て来たように、イザヤが語っているのは、イスラエルの民が、主なる神を忘れてアッシリア帝国に翻弄されている現状への批判です。彼らの右往左往な不信仰を、主はアッシリアを用いて報いるのです。しかしアッシリアもまたその自惚を報われて、帝国は見る間に萎れることが予告されました。それが、前回の最後、10・33〜34にあったことです。

見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。

この高い木々が切り払われ、林の跡形もなく切り倒された、という光景の後に、この11章を語られるのです。

11・1エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

エッサイというのはダビデ王の父の名前です。ダビデはエッサイの末っ子で、上に7人の兄がいました。祭司サムエルがエッサイに息子たちを招いた時、エッサイは上の7人を連れてきましたが、末息子のダビデは呼ぶべき一人とは思いもしなかった。しかしその、父親が数に数えなかった、余りのダビデを、主は王として選びました[ii]。主は人の考える力や相応しさや誇りを絶えず覆して、子どもや謙った人を選ばれるお方です。そして、主はダビデの子孫から永遠の王を起こすことを約束されました。しかしそのダビデも王となって思い上がり、大きな罪を犯し、それを権力で隠そうとしてしまいます。その子孫たち、ダビデ王朝を受け継ぐ歴代の王たちも、傲慢の罪に陥り続けます。その末にイスラエルの王国は切り倒されたのです。けれどもその切り倒された木々の、無惨にも残された根株から新芽が生える、根から若枝が出てきて大きくなり、実を結ぶ。無惨に何もかも終わった、と思った光景が、いつのまにか新しいいのちが始まっている。終わりと思ったのは、全く新しいことの始まりだった、という光景です。

「ダビデの」と言わず「エッサイの根株」というのは、父の眼中になかった8番目のダビデが選ばれたことを思わせますが、その新芽こそ、ダビデに約束された真の王です。

その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。

その王は主の霊が宿ります。それは、知恵と悟りという、優れた心と視野を持ち、思慮と力という実際的な政治的判断、王国の運営を司る資質をも保証します。「主を恐れる、知識」は「知識と恐れ」に「主の」がかかっていて、神である主を知り、主への深い畏怖を抱いている敬虔さ、霊的な面でも優れているということです。人格、能力、霊性が備わっているのです[iii]

その万全な資質は具体的に裏付けられます。

この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。…

こういう実際の統治をするのです。主への深い恐れが喜びとなって、表面的な判断で裁きを行うことなく、弱い者、地の貧しい者たちに寄り添う統治をするのです[iv]

…口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。

とは文字通り取るよりも、その言葉が本当に力ある言葉で、その言葉通り悪は終わるという意味でしょう[v]。武力や暴力や罰則によって無理やり服従させるのでなく、言葉によってです。また「唇の息」は「霊」とも訳せますから[vi]、ご自身の霊を吹き付けると悪しき者は息絶える、という絵も浮かびます。そして

正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

腰の帯は私たちも馴染んでいる腰のベルトで、これは兵士や労働時の装い。胴の帯は祭司や礼装での装いで、この方が戦いにおいても公務においても、正義と真実という神の御性質をもって執行する方であることを端的に描き出すのです。

そして、この方の統治の様子が、また不思議な言葉でイメージさせられるのが6節以下です。

狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。

肉食の野獣と、草食の家畜がともにいる、という風景を描きます。これは普通に考えるならありえないでしょう。狼と子羊を一緒にしたら、いや乳飲子をコブラの穴に入れるなんて…、そして獅子が藁を食う、というのですから肉食動物が草食動物になる、というぐらい根本的な大変化が言われます。これを文字通り、本当にこの通りの変化が起きると取りたい人もいるでしょう。しかし、これはあらゆる争い、敵対、不破が終わり、人間の中の対立が和解になり、赦し合い、ともに暮らすようになることを託した絵でしょう。自分の周りのあの人は、この中の狼、羊、豹や雌牛みたいだと思うかもしれません。「犬猿の仲」ということもあるでしょう。でもそれ以上に、自分の中に、狼も羊も、牛も蛇も、いろんな自分がいる、大人しい自分も怒っている自分も、平和を愛する自分も遠吠えしたいような自分もいないですか。自分の心を正直に見たら、動物園のようだった、まさに大勢の悪霊に憑かれた人が自分だったと気づいた、それでイエスに降伏したと言った人もいます[vii]。このイザヤの幻も、将来の永遠の世界での生態系のこと以上に、自分自身の心のバラバラ、魑魅魍魎の跋扈するような内側に語られているのでしょうし、さらには人間同士の和解と新しい関係が、更には動物も自然も含めた全世界のことまでも、主は完全な平和・調和を思い描かせているものでしょう。同時に、ここでの調和が狼や子羊や様々な動物が、足して割ったような、真ん中をとった動物や、ただ和やかな動物になるのではない、どちらかを排除するのでなく、ともに、と繰り返すのも心に刻みます。

今日の箇所は、使徒パウロがローマ書15・12で引用します。1節と10節を繋げて

さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。

この言葉があるローマ書15章は、信徒たちの間の諍いがテーマです。「あの人は信仰が弱い。私は強い」「キリスト者は肉を食べるべきではない。いや食べてもいい」。そんないざこざを扱う中、今日のイザヤ書11章が引かれるのです[viii]。キリストが、切り株から出る新芽のように小さく謙って現れたのは、ユダヤ人も異邦人も、ともに治めるため。弱い者も貧しい者も、狼も子羊も、あなたもあの人も、この方に望みを置く。そういうお方としてイザヤも言っていたことを思い出す。それは、今の身近な関係での争い、対立、批判なども、キリストを見上げることで、積極的に互いに受け入れ合うことに繋がるのです。人の高ぶりの枝葉も幹も切り落とされ、その根株から生え出る若枝となったキリストに望みを置く。それは、私たちの高ぶりや「正義」や、人を批判するあれこれを手放しながら、キリストの平和が求めることに直結します。

わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

今、主は私たちにご自身を知らせ、親しい関係を下さっています。これがやがて海の水のように地に満ちる時、それは私たち自身の内側の破綻も、お互いの諍いや長年の深い対立も、害も破滅もなくすに至る始まりなのです。そのために、イエスは小さな若枝となって、この世に来られ、いのちを捧げられました。そしてその霊を私たちにも分け与えてくださったのです。

「蘖(ひこばえ)なる主、子羊であり獅子とも呼ばれる主イエスよ[ix]。イザヤが預言した幻は、あなたにおいて確かに始まり、私たちもその良き、不思議な支配に与っています。私たちの内の争いを治め、主にあって真実に一つとしてください。あなたはいと高くありつつ、地の低いところに目を注ぎ、正義と公正をもって治めたもうお方。そのあなたの御国を、私たちの理解も想像も超えた御国を待ち望みます。あなたの口の言葉によって教え、新しく作り続けてください」

[i] 讃美歌96番:
1 エサイの根より 生いいでたる くすしき花は さきそめけり。

わが主イエスの うまれたまいし このよき日よ。

2 イザヤの告げし すくいぬしは、きよき母より うまれましぬ。

主のちかいの 今しも成れる このよき日よ。

3 たえにとうとき イエスの御名の かおりはとおく 世にあまねし。

いざやともに よろこびいわえ、このよき日を。

[ii] サムエル記第一16・1〜13:主はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」サムエルは言った。「どうして私が行けるでしょうか。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は言われた。「一頭の雌の子牛を手にし、『主にいけにえを献げるために来ました』と言い、エッサイを祝宴に招け。わたしが、あなたのなすべきことを教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油を注げ。」サムエルは主がお告げになったとおりにして、ベツレヘムにやって来た。町の長老たちは身震いしながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」サムエルは言った。「平和なことです。主にいけにえを献げるために来ました。身を聖別して、一緒に祝宴に来てください。」そして、サムエルはエッサイと彼の息子たちを聖別し、彼らを祝宴に招いた。彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは「この者も主は選んでおられない」と言った。エッサイはシャンマを進ませたが、サムエルは「この者も主は選んでおられない」と言った。エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んでおられない。」サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。

[iii] 「王の統治のための特性――「知恵」と「悟り」、王の実践的な能力――「はかりごと」と「能力」。王の霊の面での品性――「知識」と「恐れる」。これらすべてが、真の統治者の姿を特徴づける。」 モティア、134〜135ページ

[iv] 「さらに、3~4節にはその働きが具体的に述べられています。「彼は主を畏れることを喜ぶ」とは、 この人物が喜んで「主の霊」を受けとめていることを示しています。また、「その目の見えるところ によって裁かず その耳の聞くところによって判決を下さない。弱い者たちを正義によって裁き 地 の苦しむ者たちのために公平な判決を下す」とは、まさに社会的領域において「知恵と分別の霊」を 働かせることです。さらに「その口の杖によって地を打ち その唇の息によって悪人を殺す」とは、 暴力的手段ではなく、言葉の力によって、敵対的存在と対峙し、その力に打ち勝つことを語っています。「思慮と勇気の霊」はそうした政策を立案できる能力であると言えます。/そして最後に「正義はその腰の帯となり 真実はその身の帯となる」(5節)と結ばれています。 この「正義と真実」という対句は人間の行為と対比される「神の行為」を指します(申命記32・4、 イザヤ書3・5~6等)。つまり、2~5節で示されている王的存在には、徹底して「主の霊」が留ま っているのです。このような存在は現実の王ではなく「来るべき王的人物」の到来を示唆しています。」、モティア、129ページ

[v] イザヤ書30・31〜33:主の御声を聞いてアッシリアは打ちのめされる。主が杖でこれを打たれる。主が下す懲らしめの杖がしなるたびに、タンバリンと竪琴が鳴らされる。主は武器を振り回して、これと戦う。すでにトフェトも整えられ、実に王のためにも備えられている。それは深く、広くなっていて、そこには火と多くの薪がある。主の息が硫黄の流れのように、それを燃やす。

[vi] イザヤ書における「息」ルアハ רוּחַ  ネシャーマー נְשָׁמָה 

[vii] C・S・ルイス『喜びの訪れ』(早乙女忠、中村邦生訳、冨山房百科文庫、1977年)より。「その挙句に、わたしはそこで見たものにぞっとしてしまった。情欲の動物園、野心の精神病院、不安の養成所、おろかな憎しみのハーレム。「われは数多なり」(マルコ伝5章9節)だったのである。」

[viii] 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、

「あなたを嘲る者たちの嘲りが、

わたしに降りかかった」

と書いてあるとおりです。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。

私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、

また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。

「それゆえ、

私は異邦人の間であなたをほめたたえます。

あなたの御名をほめ歌います」

と書いてあるとおりです。

また、こう言われています。

「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」

さらに、こうあります。

「すべての異邦人よ、主をほめよ。

すべての国民が、主をたたえるように。」

さらにまたイザヤは、

「エッサイの根が起こる。

異邦人を治めるために立ち上がる方が。

異邦人はこの方に望みを置く」

と言っています。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

(ローマ人への手紙 15:1-13 JDB)

[ix] ヨハネの黙示録5・5〜6:すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」

また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。