2025/6/15 イザヤ書10章24〜34(24~27節)「重荷は肩から除かれる」#461
イザヤ書10章3回目です。この時代、紀元前8世紀、アッシリア帝国が勢力を伸ばし、イスラエルにまで迫ろうとしていました。世界地図を大きく塗り替える、アッシリア帝国の全盛でした。その中でイザヤが語る神の言葉は、24節にあるように
「アッシリアを恐れるな。」
でした。
「彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。25もう少しでわたしの憤りは終わり、わたしの怒りは彼らを滅ぼしてしまうから。」
と言います。イザヤが語る相手は、イスラエルの民で、彼らは当時、形式的な礼拝を続けてはいても、その生活や政治、社会では不正や暴力を蔓延させていました。弱い者が虐げられ、貧しい人々が放置・搾取されていました。聖書は、神を恐れることと人を尊ぶことを切り離せないこととします。人はさておき、まず神を信仰し、礼拝を第一にし、献金を献げることを神は喜ぶ、という宗教ではありません。神を愛することと、隣人を自分のように愛することは不可分です。神を恐れることは、同胞に損失を与えないこと[i]、いのちを奪わないこと[ii]、悪から遠ざかることです[iii]。イスラエルの民は、その生きた信仰から離れて、形ばかりの宗教に傾いたまま歩み続けていました。その頑なさを裁くため、主はアッシリアを使おうとしています。アッシリアの残忍な侵略を用いて、主は、イスラエルの悪を裁こうとしています。しかし、アッシリアにはその自覚はありません。アッシリアは自分の力でやった、俺は賢く、強いのだ、俺様は全能者だと思い上がる。だから主は、そのアッシリアを最後に打ち倒して、滅ぼす、と言われるのです。
ここに、24節と26節でエジプト、26節でミディアンという名前が出て来ます。ミディアンのことは旧約の士師記7章に書かれています。ミディアン軍13万余りの兵を、イスラエルの300人の兵士で打ち破った出来事です。エジプトのことは、その名の通り「出エジプト記」が伝えます。イスラエルを奴隷化して、自らを「神の子」と誇っていたエジプト王ファラオとその軍勢は、本当の神である主の前に無力で、神ではなく人に過ぎず、最後は海に呑み込まれて全滅しました。エジプト、ミディアンの時のように、主はアッシリアを滅ぼす。聖書は、このような人間の巨大な軍事力や国家権力の思い上がりを何度も挫いてきた神を、繰り返して伝えます。だから
「恐れるな」
と語り、目を神に向けさせてくれるのです[iv]。
しかし、ここで
「アッシリアを恐れるな」
とは言われますが、その前にはアッシリアを攻めて来させるという恐ろしい描写で、脅すようなこともありました。正直、ここで急に「恐れるな」と言われても、という気持ちもあるかもしれません。人間関係の中には「いう事を聞いていれば何も心配はいらない。だけど、反抗するなら痛い目を見るぞ」と板挟みにする支配があります。これは人の心を毒するダークな関係です。聖書の神も、そんな延長の神で、「飴と鞭」を使い分けて、裁きで脅しつつ希望で安心させようとする、そういう暗いダークな神なのでしょうか。
延長、と言えば、ここで26節に「万軍の主」とあり、33節にも「万軍の主」とありますが、日本の神道の神は「八百万の神」と言います。数字だけを見れば、万より800万の方が多いわけですが「八百万」とは文字通り800万の神がいる、という意味ではなく、無限・無数の意味だそうです[v]。そして「万軍の」は「いちまん」ではなく「万よろず=すべての軍・力」の主です[vi]。800万だろうと800億だろうと、すべての力の上にいます神、あるいはそれを支えて、力としてあらしめる根源者が「万軍の主」です。ファラオやアッシリアの王を比較することは出来ますが、神はそのすべての源ですから、比べたり延長に考えたりすることは出来ません。万軍の主はすべての造り主であり、支え主です。この主がアッシリアさえ用いもし、打たれもします。
27その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。…
アッシリアが押し付けて来た要求・重税・義務を主は除いてくださる。
…くびきは脂肪のゆえに外される。
とは面白い表現です。牛の首にかけて荷物を引っ張らせる道具が軛くびきです。瘦せこけたイスラエルの民の首にも軛を課す、という絵です。それが「脂肪のゆえに外される」――痩せ細っていたはずの牛が健康を取り戻して内側から太くなるので、今までの軛は役立たずになって外すしかなくなる――そんな絵でしょうか。つまりここで主は、アッシリアの支配を上から強制的に取り除くだけでなく、その支配下で恐れ、疲れ果て、首も心も痩せ衰えていた人々をも、内側から健康にして、力を取り戻し、強くしてくださる。もう奴隷や怯えた家畜のような生き方ではなく、軛を跳ね飛ばすような、内なる強さを与えてくださる。そのようにして、民のひとりひとりに力を与えてくださるのが、万軍の主です。
こんなことは人間が力づくで出来ることではありません。確かにアッシリアは攻めてきます。
28彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。29彼らは峠を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののきサウルのギブアは逃げる。
ここに出て来る地名は、エルサレムの北側の町です。中には所在不明の名もありますが、アッシリアは北方から攻めて来て、北16㎞のアヤテを攻め落とし、段々南下してくる[vii]。いわば「庵治、牟礼、屋島、古高松、新田、東山崎、前田」そして三木町に、という地図でしょうか。
31マデミナは逃げ去り、ゲビムの住民は避難する。32その日のうちに彼はノブで立ちとどまり、娘シオンの山、エルサレムの丘に向かって手を振り上げる。
しかし、アッシリアが杖を振り上げ、最後の都を攻め落とす、という段になって、
33見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。34主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。
レバノンは2・13にもあったレバノン杉のことで、高さと高ぶりを掛け合わせて、アッシリアの高慢さが倒される、ということでしょう。着々とエルサレムを攻略すべく近づいて行った思惑を28~32節でじわりじわりと描写した上で、呆気なく万軍の主はそれを倒す、という結末が33、34節なのです。そして、この丈の高い木々が切り倒された、という光景に続いて、
11・1エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
という11章に続くのです。詳しくは来週としますが、高ぶって倒されるのはアッシリアだけではありません。まずアッシリアを用いてイスラエルが倒され、都エルサレムだけが切り倒された根株のように残る――その始まりのために、イスラエルが高ぶりを挫かれるのが先立ってあるのです。「アッシリアを恐れるな」と言われたのは「自分たちはアッシリアに倒されない、敵や禍からも守られるし、何も失わないから恐れなくていい」――ではないのです。むしろ、「恐れるな」とは、人の力への過信を終わらせる言葉です。私たちの力や誇り、強みは、万軍の主になり替わることは出来ません。世界最強の権力が支配を振るい、人を黙らせようとする時も、万軍の主は「恐れるな」と言われます。強さが正しさではないし、その人の値打ちでもないし、まして、ここまでうまくやってきたことが神の御心だという保証でもない――「恐れるな」という言葉は、アッシリアや人間の傲慢を突き放す、実に力強い主の宣言なのです。
聖書は「恐れるな」という主の言葉を繰り返します。特にイザヤ書は他のどの書よりも多い16回も「恐れるな」と繰り返す書です[viii]。それはクリスチャン生活の安泰の保証ではありません。強い大国が現れることもあれば、自分の高ぶりが蒔いた種を刈り取ることもあり、理由の分からない悲劇に見舞われることもある。そんな浮き沈みや激動の中、「恐れるな」と主は仰る。この方が万軍の主であり、私たちの神であって、他の何物でもない――世界の動きにビクビクするでも、無邪気に「大丈夫だ」と楽観して、あれこれを握り締めるでもなく――主のみが神であり、いろんな重荷や軛を除いてくださり、地上の旅路を全うさせてくださるのです。
「万軍の主。「恐れるな」との声を今日も有難うございます。恐れて心を捕えられている物に、人は似てしまうもの。御子イエスが最も多く語ったのも「恐れるな」でした。力を恐れ、力を神とする軛を取り外してください。あなたならぬものから負わされている重荷を取り外してください。ただあなたのみ憐み深い神。私たちのためいのちをも惜しまず捨てた主イエスだけを恐れて、私たちも互いに思いやり、生かし合う、そんな地上の旅路をいただかせてください」
[i] レビ記25・17:あなたがたはそれぞれ同胞に損失を与えてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしはあなたがたの神、主だからである。
[ii] 出エジプト記1・16~17:彼(エジプトの王)は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」17しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた。
[iii] 箴言8・13:主を恐れることは悪を憎むこと。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。(同3・7、16・6なども)
ヨブ記1・1:ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。
[iv] 「続いて26節におけるヤハウェは三人称となっているが、過去の救いの出来事を想起させている点では24節と同じである。「ミデヤンをオレブの岩で打ったように」はイザヤ書9:3と関係するが、その由来は直接的には士師記7:25である。すなわち、ギデオンのミデヤン人との闘いとその勝利が想起されている。さらに、「エジプトでなしたように、その杖を海の上に伸ばされる」とは、「葦の海」での出来事が想起されている。確かに、「杖を海の上に伸ば」したのはモーセであるが、そのことを命じたのはヤハウェであった。
このように24-26節の「救いの託宣」と告知は、過去の救いの出来事を想起させつつ、それを根拠に「恐れるな」という語りかけがなされている。従ってカイザーの次の指摘は的を射ている。「慰めの預言者はそのメッセージの権威を、聖典を学ぶことから導き出している」(ウィリアムソンによる紹介。Williamson2018:577)。」、VTJ、166ページ
[v] 「八百万とは?」日本の神様とは? 意外と知らない八百万の神様の存在と数え方 | うつ病に悩むあなたのための、関東神社仏閣オンラインツアー
[vii] 「28-32イザヤは想像で力を働かせてアッシリヤの進行を描き出す。もちろんそれは以前実際に見たことを土台にしている。預言者はその描写を「アヤテ」から取り上げるが、恐らくこれはアイ(ヨシュア7・2)のことであろう。エルサレムから二十四キロメートル北の場所である。そこから南へミグロンまで、これは可能性としてはIサムエル14・2(ミクマスの南)で言われている場所というよりは、ミクマスにある「渡し場」(20節)から九十メートル下った所のことで、軍勢はそこにとどまることをよしとせず、もう一方の岸に百五十メートル上った「ゲバ」まで突き進む。ここで敵はユダに突入することになる。エルサレムはそこから約十キロメートルしか離れておらず、とりでの町「ラマ」と「ギブア」(20節)は進軍をとどめることができない。八キロメートル北の「アナトテ」は、近隣の「ガリム」「ラユシャ」とともに倒れる(30節)。現在は不明である「マデメナ」と「ゲビム」(3節)も同様である。しかも、「ノブ」にアッシリヤが立ちとどまることで(32節)——一・六キロメートルも離れていない――エルサレム自体が脅威にさらされることになる。」 モティア、132ページ
[viii] イザヤ書における「恐るな」は16回:7:4 彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。
8:12 「あなたがたは、この民が謀反と呼ぶことを何一つ謀反と呼ぶな。この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。
10:24 それゆえ、万軍の神、主はこう言われる。「シオンに住むわたしの民よ、アッシリアを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。
12:2 見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
37:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。
40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
41:13 わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。
41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
43:1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。
43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。
44:2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
44:8 おののくな。恐れるな。わたしが、以前からあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があるか。ほかに岩はない。わたしは知らない。
51:7 義を知る者たちよ、わたしに聞け。心にわたしのおしえを持つ民よ、人のそしりを恐れるな。彼らの、ののしりにくじけるな。
54:4 恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。
54:14 あなたは義によって堅く立てられる。虐げから離れていよ。恐れることはない。恐怖から離れていよ。それが近づくことはない。